なぜ日本人は働かなくなったのか:労働観の変遷とその底流

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今日、大阪のホームレスの<聖地>に行政の強制撤去の手が入りました。小泉構造改革によって日本再生への歩みはようやく軌道に乗ったものの、それに先立つ旧田中派-竹下派支配時代の末期、失われた90年代の政治の無策を鑑みるに、ホームレスの存在はけしてホームレス自身の責任だけではない。また、ニートなるものの存在も、自己責任の原則を血肉化させてこなかった戦後教育の弊害がバブル経済の崩壊に重なったものと言えると思います。

けれども、小泉-安倍-麻生-中川酒豪)の構造改革路線によって日本は蘇生しつつある。而して、「大阪市テント強制撤去」は将来その日本経済蘇生の動向の中で位置づけられることになるかもしれません。本稿では、このニュースに触発されて、小泉構造改革が挑んだ「働かない/働けない日本人の意識」を検討するものです。


◆働くことが貴いとされていた時代があった
私は働くのが好きです。もう、公共のブログでそう言っても許される年齢になったと思うので素面でサラッと書きましたが、本心から「働くのは楽しい/働くのは好きだ」とそう感じています。

よって、「職場では上司や先輩、雇用者側は、働く上で必要なあらゆる便宜を図り、十分な教育と指導をするのが当然ではないか」とか、「会社が倒産したら。そこに雇用されている労働者の生活は国が責任をもって面倒見るべきだ」というような主張には共感できない。もちろん、労働基本権や企業の社会的責任を否定し軽視しているのではなく、働くものの心構えや意識について言っているのです。職場を社会福祉のシステムと考え、自分をあたかも<お客様>でもあるかのように捉える、そのような意識の<労働者様>を雇う義理も必要も企業にはないと思っています。

誤解を避けるために再度補足いたしますが;ここで、<労働者様>という挑発的なタームを使ったのは私が労働組合的なものに反感を抱いているからではない。むしろ、労働組合で使命感と野心を持って一生懸命働いている人々はこの記事の論脈ではむしろ私の同志です。私が、労働者に「様」の一字を付け加えたのは、労働を必要悪と考え;当事者意識を持っことなく;あまつさえ、自分が属するチームの不具合や敗北の責任を社会や会社や上司・先輩という第三者に転換するような者達を想起する時、子供、つまり<お子様>を連想してしまうからです。

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西岸良平『三丁目の夕日』に登場する鈴木オートの従業員、星野六郎(六ちゃん)もその妹のサクラも中学卒業と同時に就職し働いています。彼等は、マルクス主義者風にいえば、あるいは、労働の生産関係からも商品からも労働自体からも疎外されており、低賃金と物価高:物神性を帯びた貨幣と物象化した資本の暴走に翻弄されている存在かもしれない。

しかし、六ちゃんもサクラちゃんも、実に、労働を貴び、努力を怠らず、かつ、リスクと責任を取る気概に溢れている。登場するキャラクター達が人生の幾多の不条理や社会の不正義に遭遇しながらも、労働を貴び、努力を怠らず、かつ、リスクと責任を取る気概を棄てないこと。キャラクター達のそのような姿に多くの日本人が共感するからこそ『三丁目の夕日』はベストセラー&ロングセラーであり続けているのではないでしょうか。

要は、『三丁目の夕日』の六ちゃんやサクラちゃんの年齢は設定では確か16歳~20歳かもしれませんが、彼等は自立した立派な「大人」であり立派な「労働者」である。それに対して、今日日の日本人の中には年齢がたとえ30過ぎであろうとも「お子様」であり「労働者様」の意識しか持っていない方も少なくないのではないでしょうか。


■自分の社会的役割を日本人がまだ自覚していた時代があった
今日、「ニート」(Not in Employment, Education or Training)と呼ばれる、社会に適応できないタイプの日本人が大量に発生しているらしい。このような社会に適応できない「お子様」をイメージするに際して、今日日、人口に膾炙している言葉が「キレる」であり「引きこもる」;あるいは、DV(Domestic Violence)やパラサイトです。二昔くらい前ですが、シンデレラシンドローム、ピーターパンシンドロームモラトリアム人間、そして「マグロ女」や「サボテン女」もこれらの子供のような労働者様的意識の日本人の増殖に対応した言葉かもしれません。

これらの個々の鍵概念は通底していると思います。それは、自分の社会的役割を認識できず、自分自身が引き受けざるをえない運命から逃れたいという意識や心性であり、更には現実の自分自身と対面することに恐怖する心性や傾向性です。つまり、無力で情けない自分の赤裸々な本当の姿を正視したくないというメンタリティティーです。

シンデレラシンドロームやピーターパンシンドローム、モラトリアム人間が喧伝された20年程前は、所謂「新人類」の登場が取り沙汰された時期でもありました。それまでの日本人とは違い社会や組織にそう強い帰属意識を感じない新しい日本人類型(=新人類)が登場したとされたあの時代です。「新人類」は、協調性不足というネガティブな特徴を持ちながらも、同時に成果も責任もリスクも自分で取るという気概をポジティブな特徴とすると喧伝されていました。でもね。

でもね。考えてみてください。どんな時代のどんな社会でも能力の高い者は少数派なのです。よって、能力の高い少数の者だけが「新人類」としての存在を許されたのが実情だった。では、社会や会社がそれほど強い帰属意識を要求しなくなった1980年代半ば以降の日本社会で、能力がそう高いわけではないその他大勢はどのような行動パターンを取ったか?

帰属意識を要求する社会や会社の存在感が後退し、自身の役割規定を他者から与えられる度合が目に見えて低くなったのが1980年代半ば以降の日本社会だったのでしょう。その状況下では、「自分は何をするべき存在か」という問いに解答することは俄然難しくなった。昔、鍛冶屋の息子が鍛冶屋になり親藩大名の藩主の継嗣が(彼が努力をし/運がよければ)若年寄や老中になれることが決まっていた時代では、この問いに解答することは容易だった。というか(哲学的や宗教的なレヴェルまで追求しない限り)問い自体が無用だった。つまり、当時は社会における自分の役割が明確だった。なぜならば、身分の区別(=職業の区別)が社会に確固としてあったからです。

身分の区別がある社会は、労働の目的を社会が各自に明確に示していた時代だった。ここで私は職業選択の自由を否定しているのではありません。職業の選択の自由が認められる度合いと自分の社会的な役割を自覚する困難さとの間には相関関係はあるでしょうが、さりとて、それらは完全に矛盾するものでもない;そして、身分制度を否定し職業選択の自由を認めることが正義にかなうと考える社会では(歌舞伎界や特殊な業界を除けば)、職業選択の自由と整合的な「社会的な役割を各自に自覚させる回路と仕組み」を再構築するしか他に道はないことも、また、明らかでしょうから。

要は、1980年代半ば以降バブル期の日本社会は、東京一極集中と地方の衰退、ならびに戦前の立派な教育を受けた世代が社会の第一線から引退されるにともない(1945年に12歳の方→1993年に60歳)、職業選択の自由の価値は認めつつも、家庭や地域社会という戦後もそれまでは確然としてあった「自分の社会的な役割を自覚する回路と仕組み」が崩壊し始めた社会だったのではないでしょうか。そして、お子様達はその状況で労働戦線に放出された。しかも、1980年代後半以降、アメリカ流の自己責任と成果主義の潮流、個性的な才能の賛美の風潮は社会の隅々に広まりつつあったのですから、お子様達が働くことに恐怖感さえ抱いたとしても、それは満更彼等ばかりの責任ではないでしょう。

このような社会的の背景が、(努力することなく幸福を手に入れたい、成果責任を負うようなしんどい境遇にはできるだけ近づきたくないという)現在のお子様達や労働者様の就労と就職離職のパターンの底にあるのではないかと私は考えています。自分の社会的な役割が見つからず、さりとて、運のいい人材や優秀な人材しか活躍できないような社会と会社を眼前にした場合、お子様達が他人の救いを待つか、できるだけそのような社会に参入するのを遅らすかしようとするのは当然だと思います;即ち、シンデレラやピーターパンのシンドロームおよびモラトリアム人間の増殖です。

しかし、努力することに価値を見出せずリスクと責任を取るのは怖くとも、「いつかは自分も大人にならなければならないよな」、という程度の常識は20年前のこの国の若者にはまだ残っていたのかもしれません。だからこそ、大人になるための猶予期間をできるだけ長く取り、大人になるための決断を他者(=白馬の王子様♪)に依存しようという行動パターンが頻発したのでしょうから。シンデレラシンドロームやピーターパンシンドロームおよびモラトリアム人間の発生は、現在の「労働と努力を貴ばない日本人」の蔓延に比べればまだ軽症だったと言えるのかもしれません。

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■社会的役割と責任の自覚が解体している構図
キレる・引きこもる・就職しない・使えない人達の増殖はどのような社会構造の帰結なのでしょうか? 「病は気から」といいますが、世代単位での労働の価値観の変容などという大きな社会の意識の変化の背景には経済的・社会思想的な変化があると私は思っています。「気は病から」の側面も大きいのです。今日の記事では扱いませんが、日本人の労働に対する価値観の変遷を究明する上では、1980年代後半から1990年代初頭にかけてのバブル期、その後の、1990年代半ばからの所謂失われた10年間(私はルースソックス期と呼んでいますけれど、)の経済学的と社会学的の研究が不可避だと私は考えています。

マグロ女やサボテン女はバブル崩壊後の90年代半ばから目立つようになったと思います。その定義はさておき、マグロ女やサボテン女は、自分からは/自分では、生活に必要な行為をしない/したくないという行動パターンを持つ日本人類型のことです。彼等は生活(性生活も食生活も:性欲の充足も食欲の充足も。他は推して知るべし!)のために必要な最低限の行為さえ「面倒くさいこと」「自分の義務でも役割でもないこと」と捉え、できればやらずに済ましたいと考える。自分は何もしないが他人が自分に援助することは当然のことと理解する。児童虐待や老人虐待などのネグレクト(Neglect)などはこの類型から派生したものですが;私は、マグロやサボテンの根っ子にも社会的な自己の役割認識の欠如なり希薄を看取せざるをえないのです。

誤解なきように。昔から、モノグサな人は沢山いました(『ものぐさ太郎』の原形は少なくとも千年以上前には成立していた)。また、江戸や明治期の遊郭でも性行為の最中なんの感情も示さない「お人形さんを抱いているみたいだ」といわれた遊女の方も少なくなかったらしい。そして、当然、マグロ女やサボテン女の発生は女性だけの現象ではありません。なあに、「マグロ男」や「サボテン男」の方が世間的に目立たないだけです。要は、女性に対する「女らしさ」の規範と男性に対する「男らしさ」の規範が社会的に異なっているだけだと思います。

マグロとサボテンが日常生活の表層に現れる社会不適応の事例とするならば、日常的な社会生活自体への不適応の典型例が、DV(Domestic Violence)でありパラサイトの問題だと思います。ここにも、自分の社会的役割認識の希薄化が観察される。それらは、夫として妻として、父として母として、親として子としての役割と責任を了解しない「お子様達」とその役割の履行を迫る社会との葛藤であり;社会に対して「お子様達」が自分の偽りの正当性を主張する行為に他ならない。その偽りの正当化が暴力として表出するのがDV(Domestic Violence)であり、社会に対する詐取として表れるのがパラサイトなのだと思います。


■働くこと努力することが価値を失った時期的な分水嶺
シンデレラシンドローム、ピータパンシンドロームおよびモラトリアム人間の発生;マグロとサボテンの増殖;パラサイト型ライフスタイルとDV(Domestic Violence)やネグレクト(Neglect)の激増を貫くものは、自己の社会的役割と責任を自覚しない/できない今日日の日本人のメンタリティーである。私はそう考えています。

では、1980年代半ばに日本人に意識を変容せしめるどのような事件が生起したか。私は、中曽根内閣以来の臨調路線がその重要な契機になったと考えています。2002年の学習指導要領に至る所謂ゆとり教育路線の原型がこの時期に中曽根臨調体制の下で策定されたことは重要だ、と。

ゆとり教育路線策定時に叫ばれた、「日本はもう先進国の後ろをついて行くことでこれ以上の発展は望めない。日本は今後、日本独自の国家目標を定めその目標達成のためにも日本独自のやり方で進んでいくのだ」とか、「これからの日本で求められる人材は決められたことを上手にやれるだけの人間ではなく、独創性を持ち個性を成果に結晶できるような人材である」というようなスローガンが日本社会に根付いていた「大人」の「労働者」の理念型への賛意と憧れを崩壊させたのかもしれない。1980年代後半以降、労働を貴び、努力を怠らず、かつ、運命を甘受しながらも各自が自分の社会的役割を果すべく最善を尽すことに:そして、リスクと責任を取る気概を保持することに価値を見出す日本人が激減したと私は感じています。正に、ゆとり教育出でて労働と努力の貴さ滅ぶ、ではないか(★)、と。

個性を労働の成果に結晶できることは素晴らしいことでしょう。敗戦国日本として先進国の背中を見て先進国を真似ていればよかった時代が、どんなに遅く見ても1980年代前半には終焉をむかえようとしていたことも事実でしょう。しかし、個性なるものの発揮は基礎学力・基礎体力・基礎技術があって初めて遂行できることです。バイエルも終了していない者にモーツアルトやベートーベンのピアノソナタの譜面を示して、「これを弾いてごらん。間違いないように弾くのではなく、貴方の個性が華開き匂いたつように独創的に弾いてごらんなさい」等と命じる音楽教師がいるでしょうか?

大多数の者は個性的になろうとしてもその能力がないのです。正確に言えば、誰もが掛け替えのない宇宙に2つと同じもののない個性的な存在なのです(それが人間存在でしょう)。しかし、個性を発揮することで成果の市場価値もそれに伴って向上するほど優秀な人材/運の良い人材は、どのような社会でも会社でも常に少数でしょう。ゆとり教育路線以後の日本社会では、「個性を重んじる」ことの価値と引き換えに、「当たり前のことを当たり前にきちんと行うことの貴さ」が忘れ去られてしまい;自分の社会的な役割を自覚して自分の行動を律する者は高度成長時代の<護送船団方式の意識>から抜け出せない愚か者と蔑まれたのではないか、と私には思われるのです。

もちろん、終身雇用制の廃止や人的資源の流動化促進は1990年代初頭以降、日本の社会と組織にとって必然だったでしょう。グローバルなメガコンペティションの時代、生産性の向上は企業にとって不可避の課題だからです。しかし、アメリカのビジネスパーソンのエートスや行動パターンを見るまでもなく、終身雇用制の廃止や転職の常態化ということと働くことの貴さ努力することの大切さの意識は豪も矛盾するものではない。

どのチームのどのポジションに移っても努力しベストを尽し成果を上げ責任を潔く取ることは評価されるべきでしょう。この事情は、むしろ、欧米諸国においての方が明確のようにさえ思われます。実際、アメリカでは「彼は/彼女は、我社で努力を惜しまずベストを尽しました。例えば、・・・」という前の職場からの具体的でポジティブな推薦状はキャリアアップをする上で極めて重要なのですから。よって、日本の現在のお子様や労働者様の労働観の問題は、健全で伝統的な労働観が崩壊した後に、自己責任と成果主義と整合的な<働く倫理観=社会的な自己の役割のイメージ>が未だ構築されていないことに収斂するのではないか。私はそう考えます。

★註:ゆとり教育路線批判の拙稿
ゆとり教育に関する私の基本的考えについては下記拙稿とそこにリンクをはっている幾つかの旧稿を参照いただければ嬉しいです。


続・ゆとり教育路線批判
 


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■キレる・引きこもる・就職しない・使えない
現在の日本社会の中で蔓延し跳梁跋扈しているのが働かない/働けない社会人です。彼等を語る時、キーワードとして<キレる・引きこもる・就職しない・使えない>の4個を私は想起します。要は、コミュニケーションを自分から遮断する、責任ある仕事を押し付けられるポジションにはつかない、責任あるポジションについているのにその責任を果すことが自分の責務とは考えないという行動パターンです。「キレる」と「引きこもる」の差は社会的なコミュニケーションが行われる場に当人が現れるか(アピアーするか)しないかの差に過ぎないと考えています。

これらの症候群が今まで縷縷述べてきた自分の社会的役割と責任を自覚できていないという労働観の徴表であることは自明でしょう。「自分の社会人としての役割と責任を了解していない者が、その役割の履行を迫る会社(上司・同僚をその中心に含め、)に対して<自分>の偽りの正当性を護ろうとするために、自分からコミュニケーションを遮断することがキレる/引きこもる行為である」、と。就職しない・使えないもこの説明の延長線上に容易に位置づけられると思います。

戦後民主主義の蔓延と戦前の立派な教育を直接受けた世代の引退に伴い;あるいは、東京一極集中とグローバル化の進行に伴う地方の衰退や家族の解体に伴って、家族の一員としての責務と役割、日本国民としての責務と役割、ある地域社会の一員としての責務と役割の意識が希薄化した。それとパラレルにある職場の組織の一員としての責務と役割もまた自覚しづらい社会に日本はなってしまったということでしょうか。

大東亜戦争後に蔓延し跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義が今日日の日本人から自己のアイデンティティー構築の縁を剥ぎ取ってしまったのかもしれない。日本人としての誇りや日本人としてのアイデンティティーが無価値なものとされ;家族の大切さと皇室の尊さが否定された状況で;普通の能力しか持たないナイーヴな<子供達>が自分の社会的役割をそう簡単に再定義できるとは私には思えないのです。


なぜ、お子様はキレるのか? なぜ、彼等は引きこもるのか? なぜ、若者は就職しないのか? なぜ、労働者様は使えないのか? それは、彼等が<自分>の領域に他者が踏み込むことを頑なに拒む結果ではないか。誰しも他人に容喙されたくない精神の領域を持っている。それは間違いない。ただ、キレる・引きこもる・就職しない・使えないタイプのお子様や労働者様にとってのその聖域が世間的には上司や同僚が、教師や級友が、親や妻が自由に立ち入れる領域であることが問題なのでしょう。

では、なぜお子様や労働者様は<自分>の領域に他者が踏み込むことを激しく頑なに拒むのか? これら4個の症候群の究極の原因がこの問いにあると考えています。それは、アイデンティティーの拒否である、と。彼等は自分でも<自分>の本当の姿を知らない。いや、彼等は本当の<自分>の姿を知りたくないのかもしれない。けれども、他者が自分の領域に踏み込んでくれば自分の姿が他者とのコミュニケーションの過程で浮かび上がって来ざるをえない;太陽が昇ればそれまで見えなかった犯行現場の全体像が明らかになるのとこれは同じです。鏡を見れば自分の美醜が否応無く認識されるのと同じ理屈です。この経緯を指して私はアイデンティティーの拒否と呼んでいます。

自立した大人の労働観を持てない彼等は、自分を見たくないという言わば心因性視覚障害にかかっていて<自分>が自分でも発見できない状況にあるのではないか。見たくないから見えないのです。ならば、伝統的な労働観の崩壊に伴い自分の社会的役割が確認しづらくなっている現在;<自分>が発見できない苛立ちと不安に苛まれている時に、その見たくない自分を無理やり見せつけるような者に対して彼等がキレる・引きこもる・就職しない・使えないという行動パターンを示すのもある意味当然ではないでしょうか。

こう考えるとき、働かない若者/働けない若者の問題の解決のためには、社会的な役割を自覚させる回路と仕組みの再構築が不可欠であり、そして、そのためにも偽りの自由と平等と個性尊重を謳う戦後民主主義的な教育観を解体する必要があると私は思います。


(2007年2月5日:yahoo版にアップロード)


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