戦後民主主義的国家論の打破☆国民国家と民族国家の二項対立的図式を嗤う(下)

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◆憲法は国家に論理的に先行するか? <承前>
民族も国民も国家もフィクションである。それは我が神州においては、歴史と文化と伝統を基底にした<皇孫統べる豊葦原瑞穂之國>という国家の成立と来歴の物語を中核として、そのような国家の一員としてのアイデンティティーとプライドを国民に供給するフィクションである。

畢竟、神武天皇の建国から明治と昭和の両大帝以後現在の平成の御世に至る万世一系の皇孫が統べる国家イメージの妥当性は歴史的事実とは無縁である(要は、それが事実かどうかなどは国家の正当性の基礎づけにおいてはどうでもよいことである)。しかし、フィクションにすぎないとはいえ、皇孫統べる豊葦原瑞穂之國という我が神州の理念は国民を国家に統合する機能を果たし、かつ、国家の独立と安全、個人の尊厳と個人の生存を国家が保障することを可能にする制度インフラに他ならない。

喩えれば、国家のフィクション(=憲法)は演劇の脚本と言える。演じるにせよ鑑賞するにせよその演劇に参加する者はその演劇のストーリーを認めなければならないという意味で国家のフィクションは脚本である。而して、その演劇が上演されている国家の内部においてその脚本や演出は唯一無比のものである。再度記す。(国家のフィクションは現実の歴史的事実をいかほどかは踏まえることが一般的とはいえ)国家の神話の正当性はなんら歴史的事実に拘束されるものではない。史実の吉良上野介は名君であったとしても仮名手本忠臣蔵の演劇空間では高師直(≒吉良上野介)は極悪人でなければならないことを想起されたい。以下、敷衍する。

プラハで生まれカリフォールニアで没した、20世紀最高の法学者の一人、ハンス・ケルゼンは、国家をも含むこのようないわば演劇空間を、価値や評価の帰属点として整理した。帰属点(Zurechnungspunkt)とは実体的な存在ではない。それはある価値や評価が結びつけられ帰属する思考の対象として人間の観念の中にのみ存在する。

例えば、サッカーワールドカップのゲームで、柳沢敦が得点しても大黒将志が得点しても、「日本代表」に1点が記録され、彼等の活躍により日本が勝利すれば「日本代表」は勝点3を得る。しかし、私は当時のベルマーレ平塚の練習場で中田英寿を、宮本恒靖を大学の学食で見たことはあるが「サッカー日本代表」には触ることはもちろん目で見ることもできない。蓋し、「サッカー日本代表」とは、サッカーのルールとサッカーの伝統と文化と慣習が意味的世界に作り上げた所の評価・価値・意味(得点や勝点)の帰属点である。それは主観的個人的なものではなく、社会的かつ公共的な性格を帯びている。そして、日本という国家もこの世に無数にあるこのような帰属点の一つにすぎない。

国家は帰属点にすぎない。それはその国民から見た場合、喩えればサッカーや野球のゲームに参加する際のチームやチームのユニフォームと理解できようか。特に、そのチームに所属することやそのチームのユニフォームに必然性はないにしても、対内的には最高で対外的には独立を属性とする主権国家が割拠する国際社会においてある個人がその生存を確保し、よりよく自己を実現しようと思うならば何らかのユニフォームを着用することがマストになるということだ。スポーツにせよビジネスにせよ世間や世界で繰り広げられるゲームに参加したいならば、好むと好まざるとに係わらずすべての個人はこの意味でのユニフォームを着用しなければならない。

国家を演劇空間の帰属点、憲法をその演劇の脚本、そして、その国民にとっての国家をユニフォームと理解する場合、では、国家と憲法との論理的な関係は如何。山室さんの発言をもう一度確認しておく。山室さん曰く、「国家があって憲法をつくったのではなく、憲法によって生まれた国家の内実は日々の政治がつくっていく」、と。前述した如く、この主張は私のオルターナティブな国家論からも国民国家論からも間違いである。

国家と憲法はあくまでも同じ政治的神話の楯の両面にすぎない。よって、国家と憲法はどのような場合にも同時に成立し、国家が憲法に先行することもその逆もありえない。私は山室さんの発言は、国家=憲法を構成している二つの要素を混同した結果ではないかと思っている。即ち、

●国家-憲法(A)
・国家のフィクション(=憲法)による国家と憲法秩序の創出
・国家のフィクション(=憲法)による国家と憲法秩序の正当化

●国家-憲法(B)
・創出された国家の活動の制限規範による枠づけ


このように国家-憲法を(A)と(B)の両系列の重層的な思想的構造物と理解する場合、(A)は(B)に論理的に先行することは明らかであろう。国家が存在しない所で国家の権力行使に箍をはめることは論理的に不可能だからである。山室さんの議論は、故意か過失か不明なものの、(A)を「憲法」と(B)を「国家」と表記することで読者をミスリードするものである。それは憲法=国家が国民を国家に統合する契機:憲法が国民に対する規範の側面を持つことを看過しており、国家を憲法によって制限される対象としてのみ理解するという誤謬を犯している。

いずれにせよ、「すべての国民の共有物であるパブリック=公共社会としての国家をつくるというのが国民国家論であり、一人ひとりが責任を負って公共社会をつくっていくことになる。そのためには過去の栄光と悔悟を共有するという歴史認識の問題も避けられない。また、未来に向けて築くべき社会像を共有目的として掲げ、それを実現するためのプログラムが必要だ」という山室さんの発言に私は半ば反対で半ば賛成である。

「公共社会をつくっていくこと」と「過去の栄光と悔悟を共有するという歴史認識の問題」の関連は私には意味不明である。長谷部恭男さん流に言えば「比較不能な価値の領域」に容喙しないことこそ国民国家のあり方であるはずであり、ならば、典型的な比較不能な価値領域たる「歴史認識」は国民が国民国家に参画する際に問題にされるべきではないだろう。

他方、「一人ひとりが責任を負って公共社会をつくっていく」べきだとの発言には正に我が意を得たりである。制度インフラとしての国家のフィクション(=憲法)はそれがフィクションである限り、国家と国民の人為的と向自的な日々の努力によってメインテナンスされなければならないと私も考えるからである。よって(もちろん山室さんとは随分意見は異なるだろうけれど)、教育基本法の改正を始めとして愛国心(≒日本人としてのアデンティティとプライド)を国家と国民一丸となって次の世代に強制すべきと私は考える。尚、この愛国心の強制が国家の責務であるという経緯については下記の拙稿を参照いただきたい(最初の2本はいささか古い記事ではあるが、逆に私の基本的な考えの形成過程を率直に書き記したものになっている)。

・外国人がいっぱい
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E7.htm

・揺らぎの中の企業文化
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E45.htm

・橋爪大三郎『愛国心の根拠は何か』の根拠を問う
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E47.htm

・愛国心教育などは愛されるに値する国になってから言いなさい?
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/34879785.html


◆グローバリゼーションは<国家>を死滅させるか?
グローバリゼーションと国民国家論の相互作用について山室さんはこう述べておられる「今後さらに国際交流が進んで多民族社会となる日本において、私はそこに住む人たちが国境を超えて公共社会をつくるという新たな国民国家論を期待したい。いま愛国心が求められるのなら、あえて、「憲法愛国心こそ」と言いたい」、と。

ここでも「帰属点」を使って説明させていただければ、例えば、「海外に行くと日本人としての自分を自覚する」ことは価値や意味や評価の帰属する点としての日本(=国家)を意識することである。もちろん、山室さんがおそらく希望されておられるように、「日本」が帰属点に過ぎないこと、そして帰属点を帰属点たらしめている意味づけのルールの相対性に自覚的か無自覚的かは問わず今後も多くの日本が毎年毎年対面して行くことも確実である。

国際化の時代は、異なるエスニシティを抱える外国人が日本社会の構成員になる側面のみならず、日本人が「外国人」となる通路からも、所謂日本文化の独自性なるものや国家のアイデンティティーという神話(=フィクション)を最も基本的なところで弛緩させていく。国家のアイデンティティーや国家の国民統合の機能の劣化が個々の日本人の危機では必ずしもないとしても、このグローバリゼーションの予想からは日本の社会秩序の弛緩の危機は冗談抜きにリアルなものである。

他方、グローバリゼーションは世界中のすべての個人や組織や国家の活動が相互に影響する時代の到来と同義であろう。それは、世界中のすべての個人が他国のすべての個人や組織や国家と協働する可能性が開かれていると同時に、逆に、他国のすべての個人や組織や国家からの合法・違法を含めた影響と攻撃にさらされることを意味している。ならば、自分単体で世界に通用する能力を持つ限られたプレーヤーを除けば、ほとんどのプレーヤーにとってその属する国家が提供する行政サーヴィスの需要は拡大すると私は予想する。

畢竟、グローバリゼーションの時代は自己のアイデンティティーが危機に瀕するというハイブローでナイーブな事象だけでなく、もっと即物的に自己の生活と生存がグローバルな競争にさらされる時代でもある。中国製品の攻勢による日本のタオルメーカー、否、タオル製造業界の業界ごとの消滅はわずか数年前の出来事ではなかったか。

グローバリゼーションの時代は帝国主義の古き良き牧歌的な時代とは違い外国の軍隊が攻め込んできてくれるということさえない(?)。そこでは、高度なロジスティクスと通信のシステムを通して瞬時に商品とマネーと情報と訴状が飛び交う時代でもある。それはある意味、東西の隣国に雪崩れ込んだナチスドイツの侵攻やポーランドはアウシュヴィッツ強制収容所の蛮行が(経済と文化侵略に形は変えるものの)、日常生活の中に暴力的に組み込まれかねない世界でもある。

これらを鑑みるに、「国境を超えて公共社会をつくるという新たな国民国家論」を山室さんが希求されるのは勝手だけれど、公共社会の形成にはその基盤として共通の利害と生産様式を共有する経済社会的にクリアカットな集団の実在が不可欠とするならば、それは現在の所単なる妄想に近いだろう。いずれにせよ、グローバリゼーションは<国家>を死滅させるどころか、過渡的にせよその需要を拡大させると私は予想する。蓋し、国民の社会的統合がグローバリゼーションの昂進によってリアルな危機を抱えつつある現在、海のものとも山のものともわからない「国境を超えた公共社会」などに国民国家論の再生を期待するなどは正気の沙汰とは思われない。

国境に隔てられることのない天賦人権の価値(≒個人の尊厳)が国民国家の正当性の根拠ではある。けれども、国民国家においても国家の行政サーヴィスの供給は原則その国民に限定されている。即ち、自国民の生存を保障するものは現在でもその所属する国家をおいてない。畢竟、学習でもビジネスでも政治でも何事においても、Step by step. Slow and steady. が肝要であろう。ならば、憲法愛国心などに飛躍する前に今こそ愛国心を強化するべきではないか。私はそう考える。


(2006年6月11日:yahoo版にアップロード)



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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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