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公務員労組と公務員の政治活動を巡る憲法論(中)




■公務員の政治活動の制限と憲法訴訟
現行憲法15条2項は「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と定めており、また、かっては、所謂「特別権力関係論」(公務員・在監者等、一般国民とは異なり、国家権力との間で特殊な「命令-服従」の関係にある者は憲法上の権利の享受・行使が制限されてもやむを得ないとする議論)から、当然、公務員はその政治活動の権利が制限されるという憲法解釈論が存在していました。けれども、現在、「全体の奉仕者」や「特別権力関係」の6文字からアプリオリに、かつ、オートマティカルに、①すべての公務員の、②すべての政治活動の自由を、③一律に制限することは憲法上は認められないという立場が通説であろうと思います。例えば、芦部信喜『憲法第四版』(岩波書店・2007年3月)はこう述べています。

公務員の人権については、国家公務員の政治的自由の制限(国家公務員法102条、人人規則14-7)と、公務員等の労働基本権の制限(国家公務員法98条2項、地方公務員法37条、特定独立行政法人等の労働関係に関する法律17条【逆に、1954年の改正に際して、その違法な政治活動に対する罰則規定が原案から削除された教育公務員特例法】)がとくに問題となる。公務員の人権制限の根拠は、初期の判例においては、公共の福祉および「全体の奉仕者」(憲法15条2項)という抽象的な観念に求められていた。その背後には、特別権力関係論の考え方があった。(pp.104-105)

しかし、人権制限の究極の根拠は、憲法が公務員関係という特別の法律関係の存在とその自律性を憲法秩序の構成要素として認めていること(15条・73条4号)に求められなければならない。(p.263)

つまり、政党政治の下では、行政の中立性が保たれてはじめて公務員関係の自律性が確保され、行政の継続性・安定性が維持されるので、そのために一定の政治活動を制限することも許されるのである。しかし、公務員も一般の勤労者であり市民であるから、政治活動の自由に対する制限は、行政の中立性という目的を達成するために必要最小限度にとどまらなければならないと解するのが妥当である。そういう立場をとれば、公務員の地位、職務の内容・性質等の相違その他諸般の事情(勤務時間の内外、国の施設の利用の有無、政治活動の種類・性質・態様など)を考慮したうえで、具体的・個別的に審査することが求められよう。

そのための審査基準としては、公務員が公権力(国ないし地方公共団体)と特別な法律関係にある者であることも考えあわせると、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準が適切であろう。現行法上の制限は、すべての公務員の政治活動を一律全面に禁止し(その点で表現の内容規制である)、しかも刑事罰を科している点で、違憲の疑いがあるが、判例は、全農林警職法事件判決【以降、これらをすべて合憲と解している】(p.266)
    

畢竟、現在の憲法訴訟論における憲法上の権利の制限は、(a)可能な限りそれをミニマムにすべく、(b)制限される自由の種類と性質に着目してこれを類型化し、かつ、(c)権利制限の根拠の合理性を、権利制限の手法に着目してこれまた合理的に類型化する、重層的な類型化の思索を基盤としています(★)。

ならば、それ自体を切り取る時、その業務が公権力の行使・運用とは必ずしも言えない現業的職務や単なる事務処理的な業務に専ら携わっている公務員と高級官僚を同一視すること、または、教師が勤務時間中、あまつさえ、卒業式や入学式で日の丸・君が代に反対するとか、あるいは、「竹島は韓国の領土だ」などと日本国政府の立場と異なる見解を子供たち教えるなどいう破廉恥な行いと、同じ、教師が公休日に「北方領土返還デモ」や「拉致問題糾弾市民集会」に参加することを同一視することは現下の憲法訴訟論からは支持されないのではないか。

蓋し、芦部さんが述べておられる通り、判例が公務員の政治的自由に関して、現行法規の広範囲、かつ、一律の制限を合憲としている現状においても憲法訴訟論からはそう言えると思います(要は、判例もこの同じ憲法訴訟論を前提に、異なる事実認定と法益の異なる比較考量から通説とは正反対の結論を導いているということです)。

★註:憲法訴訟による権利の保障と制限
現在の憲法訴訟論の地平からは(一応、二重の基準論を前提にした上で)精神的自由の制限か、経済的自由の制限か、経済的自由の制限とすればそれは(食品や住居等の安心安全を図るための)社会的規制かそれとも狭義の経済規制か、更に、後者とすればそれは(所有権や経済活動の自由を制限する)消極的な経済規制か、それとも、ケインズ政策の断行、社会経済の円滑な運営や福祉国家の実現のための積極的経済規制であるかに従い、権利が国家により保障される度合には差があるものと考えられています。理念的に言えば、規制を行なう国家にとって違憲判決を喰らい易い順、すなわち、権利制限のための敷居が高い順(高→低)に並べれば次の通り、

↓表現内容に着目した精神的自由の制限
↓表現内容には無関係な精神的自由の制限
↓消極的経済規制
↓積極的経済規制
↓社会的規制

而して、憲法が「権利制限を制限する度合」は、具体的には、(イ)憲法訴訟の審査基準:どの程度の厳格さで人権侵害を審査するか(および、この裏面としての「権利を制約する法規に合憲性が推定されるかどうか」あるいは「違憲を立証する責任は誰に帰属するか」)、そして、(ロ)憲法訴訟の具体的な合憲性判断基準:何が満たされれば違憲とされるか(例えば、「より制限的でない他の選びうる手段」の基準等々)の二つの軸の交点に求められるのです。
    



unionmen7



■憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性
私は、赤旗配布事件はともかくとして、今般の小林代議士の違法献金事件に醜悪にも露呈した、日教組・全教の政治活動に対しては日頃から不信を抱いている者です。その私が「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」と、なぜ、縷々述べてきたのか。

それは、繰り返しになりますが、現在は、「公共の福祉」や「特別権力関係」、あるいは、「全体の奉仕者」等々のBig Wordsを「水戸黄門の印籠」よろしく示せば事足りるなどという古き良き時代ではないこと。畢竟、憲法訴訟論の地平で、個々の権利の性質について具体的な論拠を繰り出すのでなければ「左翼-リベラル派」との議論では太刀打ちできない、と。そう考えているからです。

けれども、現在の判例たる、全農林警職法事件最高裁大法廷判決(1973年4月25日)や猿払事件最高裁大法廷判決(1974年11月6日)が、公務員の政治活動を無条件に認めているわけではないことからも明らかな如く、「公務員の政治活動を制限することは現行憲法から見ても慎重を要する」ということは、必ずしも、日教組教師が勤務時間中に「竹島は韓国の領土」であると子供達に教える権利を容認するものではないことは当然です。否、「現行憲法の解釈論からは公務員の政治活動を一律に制限することは許されない」という理路は、一方で、日教組教師の跳梁跋扈を封じつつ、他方では、例えば、安全保障政策を巡って、専門家でありその第一線にある自衛隊員諸氏が市民の立場からする政治的発言を憲法から正当化し得る側面もあるのです。

而して、私は、今般の北教組の破廉恥な違法献金事件が示唆している課題は、個人としての公務員に憲法が認めている政治活動の範囲の確定だけではなく、公務員労組の適正なる政治活動の範囲、あるいは、政治的影響力の度合の確定であると考えます。そして、後者を明らかにするためには、現行憲法における公務員と公務員労組の政治活動の本性を措定しなければならず、また、その考察が前提にすべきは次の5個ではないか。と、そう私は考えています。

・すべての個人や団体のすべての活動は政治性を帯びる
・公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべきだ
・公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である
・公務員労組の歪な政治的影響力は排除されるべきである
・公務員労組と公務員の権利は無関係ではないが位相を異にする


例えば、それが私的行為であれ皇族の行為は強い政治的影響力を帯びざるを得ないように、まして、国家の権限と責務が社会の広範囲に及ぶ、所謂「行政権の肥大化」を伴った現下の大衆民主主義下の福祉国家では、どの労組であれ企業であれのどのような活動も政治に影響を及ぼさないことはない。ならば、公務員とその労組の政治活動につき憲法的に「許される/許されない」の線引きの基準として<政治性=政治的影響の有無と強弱>にはあまり多くを期待できないでしょう。

また、「公務員が一市民として政治にコミットする権利は最大限尊重されるべき」ことは、前項で引用した芦部さんの主張を反芻するまでもなく自明のこと。蓋し、彼や彼女が、()勤務時間外に、()政治政党の正式メンバーとしてではなく、かつ、イベントや配布物の主宰者や文責者側としてではなく、()政治的意見を表明したりイベントに参加したりすることは自由である。と、そう私は考えています。而して、()に関しては、現在、裁判官・検察官・警察官等を除けば公務員も政党の党員になることは禁止されていませんが、それは、些か<過剰サービス>ではないかと私個人は思います。

「公務員労組を排除する国家意志の形成は歪である」とは、<国民>という「国民」は存在しないことから明らか。つまり、普通名詞や抽象名詞の<国民>などは、政治を抽象的に考究する学的思索の中にしか存在せず、この世に実存するものは固有名詞の「国民」であり、企業経営者や公務員や民間企業の被雇用者である具体的な諸個人でしかない。何を私は言いたいのか。それは、地方・国・第三セクター併せて労働人口の公務員比率が優に10%を超える(また、一般・特別・財投を合わせればGDP比の公的支出が50%近い)現在の日本で、公務員の政治活動を認めないということは、現実には、1-2割の国民の政治参加を拒絶するに等しい暴挙でしかないということです。二つの思考実験で敷衍します。


なんらかの集会のために公園を利用したいという申請を「一般の利用者を排除する」ことを理由に当局が拒絶するケースを想起してみてください。それは、公務員の政治活動を「抽象的な国民概念=非公務員概念」を理由に拒絶することとパラレルではないでしょうか。常日頃、その時間帯には40人足らずの親子連れしか利用していない公園を、「一般の利用者の排除」を名目に例えば、400人の市民が集会に使用することを禁止するのは不条理を超えて滑稽でさえあるでしょう。

しかし、「公園=公共財」の利用というこの同じ思考実験から、別の不条理もイメージすることができるかもしれません。すなわち、常日頃、100人の固定メンバーがあたかも自分達のグループ専用の公園のようにその公共財を占有しているケースです。この場合、確かにその日その日の「一般の利用者」は40人足らずにせよ、その背後には潜在的に4000人からの利用希望者が控えているとしたら、前のケースとは逆に、その100人の固定メンバーは、公共財のフリーライダーであるだけでなく不法占拠者と呼べるのではないでしょうか。
   


<続く>







(2010年3月30日:yahoo版にアップロード)

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