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国家が先か憲法が先か☆保守主義から見た「法の支配」




国家が先か憲法が先か。こう自問するとき、私は「卵が先か鶏が先か」と自問自答するのと同様な感覚を抱かないではありません。けれど、この「国家が先か憲法が先か」の問いは、就中、現在の日本では強い実践性を帯びているのではないでしょうか。そう私は考えています。

所謂「立憲主義」の強い影響下にある現下の日本の憲法研究者のコミュニティーでは、「憲法とは国家権力を縛る箍である:憲法は国家権力に対する命令であって、国民を拘束するものではない」「国民の多数の意志によってしても国家権力が基本的人権を制約することは原則的に許されない」「君主制が過去の時代の産物になった現在、「国民主権」に言う「国民」には相当の期間平穏に日本で暮らしていて、かつ、生活の本拠が日本以外にない外国人も含まれる」等々と言った主張が大真面目に語られています。

他方、「憲法9条を遵守して国が滅ぶ事態を看過するわけにはいかない」「憲法とは煎じ詰めれば国柄や国体のことであり、現行憲法典の中でも日本の文化伝統と親和性の低い規定は無効である」、更には、「そもそも明治憲法や国際法に違反する改正手続によって成立した日本国憲法は無効であり、加えて、「法の支配」の原則から見ても明治憲法が現在でも現行の憲法だ」と唱える論者も存在しているようです。

実際、現行憲法9条の解釈において「国家が先か憲法が先か」の問いは「卵が先か鶏が先か」との問いとは違い(否、「同様に」なの、鴨)、各々の論者に「憲法とは何か」「国家とは何か」を巡って厳しく立場の表明を要求する。実際、

「自然権たる自衛権を憲法が否定することはできない以上、現行憲法の9条の字句にかかわらず日本国は自衛のための武力を保有しうるし、自衛のための戦争も遂行できる」
    

という現在の有権解釈の主張に対しては、「憲法は国家に優先する」とばかりに否定的に解する憲法研究者も少なくないのですから。

尚、「日本国憲法は交戦権を否定しているのだから、交戦権に含まれる講和条約を締結することは日本国憲法を根拠にしては不可能。よって、サンフランシスコ平和条約等の講和締結が可能だったのは明治憲法の講和大権によるものだ」という妄言を吐いている向きもあるようですのでここで老婆心ながら申し添えておけば、

第一に、日本国憲法が占領下に制定された以上、近い将来、この憲法を根拠にした日本政府の行為によって日本が占領状態を脱して主権を回復することを日本国憲法も前提としていたと解されること、第二に、憲法9条とパラレルな不戦条約等の解釈においては国際法では通常「交戦権」とは「戦時国際法が認める交戦国の権利・義務が認められる地位」を意味すること。これらから、日本国憲法の解釈として、「国の交戦権は、これを認めない」(9条2項後段)に言う「交戦権」には「講和条約締結権=戦争によって生じた権利義務を確定する権限」は含まれない。要は、講和条約締結権を憲法9条2項が否定しているとは解されず、よって、日本政府がサンフランシスコ平和条約等々の多国間・二国間の条約を結び、もって、大東亜戦争によって生じた領土問題や賠償問題を解決したことは憲法論的に見てなんら問題ではありません。閑話休題。


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■「国家が先か憲法が先か」の意味
国家が先か憲法が先か。この問いに言われる「先か」とはどのような意味なのでしょうか。ところで、「卵が先か鶏が先か」の問いに含まれる「先か」が因果関係を示していることは間違いない。ならば、「卵が先か鶏が先か」に答えることはそう難しくはないのかもしれません。すなわち、

①卵から産まれない鶏はおらず、卵から生まれない鶏はいない
②卵から産まれる動物は鶏だけではない
③鶏ではない動物が卵を産み、その卵から鶏が生まれた
④鶏よりも卵が先にこの地上に発生した    


ここで、問題は、実は、③の段階では③2「鶏ではない動物が鶏を産み、その鶏以降、親鳥の産んだ卵から鶏が生れるようになった」という議論も③と論理的には等価ということ。そして、その場合の結論は④2「卵よりも鶏が先にこの地上に発生した」になるのでしょう。而して、私が「ならば、「卵が先か鶏が先か」に答えることはそう難しくはないのかもしれません」と大見得をきったのは、①の鶏の定義が③2「鶏ではない動物が鶏を産み、その鶏以降、親鳥の産んだ卵から鶏が生れるようになった」という想定を排除しているからです。

このお遊びで何を言いたかったのか。それは、経験的事実の裏打ちが要求される因果関係を巡る議論においても(経験的事実が入手できない未知の領域では)用語の定義によって結論が左右されるということです。而して、その問いが因果関係ではなく、権利関係や論理的な認識の順序を巡るものであれば、その解答が用語の定義の如何に左右される度合が極めて大きいことは自明でしょう。而して、「国家が先か憲法が先か」の問いもそのようなタイプの問いであろうと思います。

お遊びはこれくらいにして、「国家が先か憲法が先か」の問いの意味を措定しておきましょう。憲法9条の解釈等々、この問いが特に実践性を帯びる幾つかの場面を想起するとき、この問いに含まれる「先か」は、(イ)憲法の運用において優先される価値の順位、(ロ)国家や憲法を認識する上での論理的な優先順位が問われていると一応考えられると思います。すなわち、


(イ)価値の順位
憲法典の諸条項に明記されている基本的人権、あるいは、(例えば、国民主権や天皇制といった)諸原理・諸制度よりも優先される実定憲法的な価値があるのか。そして、そのような価値が存在するとすれば、そのような価値の中には<国家>でイメージされる表象に付随するものがあるか。

(ロ)論理の順位
<憲法>を理解する上で<国家>のイメージが不可欠の前提か否か。逆に、<国家>を理解する上で<憲法>のイメージが不可欠の前提か否か。敷衍すれば、<国家>とは世の森羅万象の中から<憲法>によって切り取られる対象が構成する「部分集合」(あるいは「真部分集合」)か、または、それら「部分集合-真部分集合」の内部に観察される「構造」にすぎないか否か。逆に、<憲法>とは世の森羅万象の中から<国家>によって切り取られる対象が構成する「部分集合-真部分集合」の内部に観察される「構造」にすぎないのだろうか。    


これらのことが「国家が先か憲法が先か」の問いの意味ではないかと思います。

ならば、「憲法9条を遵守するあまり国家の生存が絶たれるなどという事態は憲法的にせよ超憲法的にせよ認められない。よって、自衛権は憲法的にせよ超憲法的にせよ認められる」とか、「平穏に日本に居住する、かつ、日本以外に生活の本拠がない外国人を「国民」と同一視するが如き、国家の一体性と自己同一性を掘り崩す憲法解釈は憲法的にせよ超憲法的にせよ認められない。よって、外国人への日本国籍の付与は憲法的にせよ超憲法的にせよ原則的に帰化制度を通してのみなされるべきだ」という主張の是非がこの「国家が先か憲法が先か」の問題と密接に連関している。    

と、そう私は考えるのです。而して、マルクスが『経済学批判』の序言述べている次の認識は国家と憲法を巡る「論理の順位」に関する発言と理解できるでしょうし、他方、ラートブルフ『法哲学』の次の言葉もまた同様ではないでしょうか。

人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると、いままでそれがそのなかで動いてきた既存の生産諸関係、あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。経済的基礎の変化につれて、巨大な上部構造全体が、徐々にせよ急激にせよ、くつがえる。(岩波文庫, p.13) 


価値判断すなわち評価は存在事実によって影響されない、と主張しようとはしない。・・・存在事実と価値判断の間の因果的関係はここでは論点ではなく、むしろ存在と価値の論理的関係が論点なのである。価値判断は存在事実を原因として生まれることはできないと主張しているのではなく、むしろ価値判断は存在事実を理由として基礎づけられることはできないと主張されているのである。

法律学の対象は、事実であり、法の命令であり、意欲の命題であるが、法律学は、この事実を事実としてではなく、その客観的意味によって考察するゆえに、この事実は、法律学により当為命題すなわち規範として取り扱われる。(東京大学出版会, p.115, p.276)     


では、「国家が先か憲法が先か」の是非は如何。憲法と国家の「概念の枠組み=定義の定義」を反芻しながら思索を掘り下げてみたいと思います。


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■憲法の概念と国家の概念の枠組み
ハンス・ケルゼンは「法と国家の同一説」を唱えました。曰く、「法学的に観察する限り、国家とは法体系以外の何ものでもない」、と。この見解は、(例えば、ある社会現象を経済学の観点から見ればそれは経済現象であり、他方、法学的に見ればそれは法現象であるように)「認識が対象を決定する」という新カント派の認識論を否定しない限り(現在の分析哲学の地平においても)正しいでしょう。

而して、本稿の射程がどこまでも、(イ)憲法基礎論から見た場合、憲法典の諸条項に含まれない価値や規範の中で憲法の諸条項から演繹できる価値や規範に法の効力において優先されるものがあるのか、あるいは、(ロ)憲法基礎論の認識において、<国家>の表象がなければ<憲法>を理解することはできないのかどうかを究明するものである限り、本稿の射程内においては<国家>も<憲法=憲法体系>でしかない。一応、そう言わざるを得ないと思います。

では、本稿の「卵と鶏」問題は「憲法が国家に先んじる」ということで一件落着か。ならば、「憲法を遵守するために国家が滅んでも、少なくとも憲法論的には可とすべき」なのか。

否、です。なぜならば、ケルゼンの叡智は、憲法基礎論において<国家>と<憲法>が同一であることを教えてくれるものの、(ロ)その<憲法=国家>の内部に憲法典を構成する諸条項とは別に「国家」という言葉が指し示すある特殊な規範内容が存在している可能性と、(イ)そのような「国家」という言葉に憑依する規範や価値と憲法典を構成する諸条項との法的効力に差異が存在する可能性とを排除しないからです。

要は、ケルゼンの「法と国家の同一説」もまた<憲法体系=国家>の内部構造の決定に関しては「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」のです。

以下、「憲法」と「国家」の概念そのものを整理した上で、<憲法=国家>の内部構造を究明すべく「法の支配」の原理を補助線に使って思索を進ることにします。


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■憲法の概念と国家の概念
繰り返しますが、蓋し、「巨人軍の4番バッターと横綱はどちらが強いか」という質問にあまり意味がないように、「領土・国民・主権」を外延とする「国家」と(まして、富士山や芸者、メイドカフェやアニメを外延に加えた「日本国」のイメージと)法体系たる<憲法>を比べることにそう大した意味はないでしょう。ならば、本稿の「卵と鶏」問題の帰趨は、あくまでも<憲法=法体系としての国家>の内部構造の分析によって究明する他ない。

では、<憲法=国家>の内部構造を如何に措定するか。

ポイントは、(a)<憲法>と言い<国家>と言ってもそれが<法>である以上、それは単なる個人の主観を超えた間主観性を帯びたものということ。而して、(b)それが<憲法>であり<国家>であるためには、「法の妥当性:その法体系に従うのが当然であるという国民の法意識」、および、「法の実効性:その法体系に実際ほとんどの当該の社会のメンバーが従っている事実」が客観的に観察されること、すなわち、(法体系を構成する個々の法規条項には「盲腸」「機能不全」の徴候が見られるとしても)法体系全体としては法的の効力が社会学的に確認できること。    

これがその内部構造を究明分析されるべき<憲法=国家>が備えていなければならない性質ということです。蓋し、「誰しも自分が守りたいルールを「法」と呼ぶ」というリアリズム法学的の冷笑が相応しい憲法無効論の妄想に例を取れば、

控えめに言っても日本国民の99.99%が明治憲法を<憲法>とは考えていない、また、例えば、憲法規範の主要な内容である行政・立法・司法の三機関の構成も権限も活動のルールにおいても明治憲法のどの条項も法の妥当性も実効性も社会学的に確認できない、すなわち、法の妥当性と法の実効性の双方が明治憲法には欠如しており、畢竟、明治憲法は法としての効力を保持していないこと。    


このことを鑑みれば、「明治憲法=旧憲法」はその内部構造を究明分析されるに値する<憲法=国家>ではないことは自明ではないでしょうか。尚、憲法無効論の荒唐無稽さに関しては下記拙稿をご一読いただければ嬉しいです。

・憲法無効論の頑冥不霊と無用の用(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58998947.html


畢竟、憲法典だけが<憲法>ではない。<憲法>とは()法典としての「憲法典」に限定されるのではなく、()憲法の概念、()「憲法の本性=憲法の事物の本性」、そして、()憲法慣習によって構成されている法体系と考えるべきなのだと思います。而して、()~()とも、「論理的-歴史的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単にある個人が自己の願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないのですから。   

蓋し、<憲法=国家>の内容をこう措定するとき、その内部には、伝統と慣習の蓄積の中で国民の法的確信が紡ぎだし編み上げた規範が含まれることになる。而して、立憲主義が「憲法は国家を縛る箍である」と主張する前提には論理的に「国家が憲法に先んじる経緯」が横たわっていると言える。なぜならば、存在しない国家を縛ることなど論理的に不可能なはずですから。他方、いかにそこに伝統が蓄積されていようとも、国民の法的確信が憑依していない事態は因習にすぎずそれは憲法慣習ではない。新カント派の方法二元論を持ち出すまでもなく、事実から価値を演繹することも、事実から価値を根拠づけることも不可能なのですから。

では、<憲法=国家>としての憲法慣習とはいかなるものか。これが「卵と鶏」の帰趨を決するものではないかと思います。尚、本項の内容に関しては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59468610.html

・法とは何か☆機能英文法としての憲法学
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59457108.html


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■法の支配の意味
所謂「法の支配」について東京大学の長谷部恭男氏はこう述べている。曰く、「法の支配について多くの人々が一致しうる点があるとすれば、それはこの概念が人によってさまざまな意味で用いられていることであろう」(『比較不能な価値の迷路』(東京大学出版会)p.149)、と。至言だと思います。芦部信喜・伊藤正己・Dicey等の諸家の理路を紐解き私なりにこの原理の意味を整理しておけば概略次の通り、

(甲)法の支配の内容-日本
(1)憲法の最高法規性の観念
(2)不可侵の個人の人権の観念
(3)法の内容・法の手続の公正さを要求する適正手続の希求
(4)国家権力の恣意的な運用を防ぐ司法の役割への期待   


ポイントは、このような法の支配の要求を可能にする「法」は単に手続き的正当さだけではなく、内容的にも正当なものでなければならないという主張が、12世紀のH.Bractonや13世紀の「マグナカルタ」(1215年)から17世紀のEdward Coke、そして、18世紀のBlackstoneと19世紀のDiceyに至るまで英米の法思想には脈々と流れていたこと。而して、その「正しい法」の概念は、「法は発明され創られるものではなく発見されるもの」だというコモン・ローを貫く法の観念に基礎づけられていたことかもしれません。

要は、「人治ではなく法治」を求める法思想としては、所謂「法治主義-法治国家」と法の支配はパラレルではある。しかし、後者は(「悪法も法なり」とする)前者と違い(3)内容面でも手続面でも適正さを法の内容と運用に求める点で異なる、と。多くの憲法の教科書にはこのように書かれているのではないでしょうか。

尚、「コモン・ロー」という言葉も多義的。大雑把に数えても、①大陸法に対する英米法という意味、②英米法の内部でも宗教裁判所で適用された教会法に対する世俗の法という意味、③世俗の法の中でも大法官裁判所で適用された衡平法に対して王座裁判所等の通常の裁判所で適用された法という、重層的な意味を「コモン・ロー」は帯びています。

而して、1873年にすべての裁判所が通常の裁判所系統に統合される以前の③の語義に限定するとしても、(α)「法は発明され創られるものではなく発見されるもの」という事実は歴史上存在したことはなく、また、(β)名誉革命(1688年)を契機として国会主権の原則が成立したこと、そして、(γ)19世紀末から20世紀初頭に始まる「福祉国家化-行政権の肥大化」にともなう膨大な行政法の制定によって英国においても「法の支配≒裁判所によって発見された法の優位性の主張」は、少なくとも、英国憲法のルールではなくなったと解するべきなのです。   

蓋し、英米の法の支配の終焉を踏まえるならば、(英米とドイツ・フランスとのその沿革の違いを除き、よって、中味の面での法の正しさの根拠が伝統か論理かの差を捨象するとき)合法的に権力を奪取して行使したナチズムへの反省から、(2)(3)基本的人権の尊重を憲法価値として組み込み、(1)(4)裁判所による憲法保障制度を導入した「法治主義-法治国家」を「実質的法治国家」と呼び、法の支配とほぼ同一視する現在の憲法学の通説から逆算すれば、現在の法の支配の内容は(1)~(4)に収斂すると考えても満更間違いではないと思います。

畢竟、「法の支配は、法思想・憲法思想の問題、すなわち、法や憲法をどう見るか/どう見たいかという問題(out look upon law and constitution)にすぎず、それは、経験的な法規範の内容理解とは直接の関係はない」のです。蓋し、「自然法の存在には疑義があるとしても、自然法思想が存在したことは確実」なのと同様、法の支配に具体的内容は乏しいとしても、法の支配の観念が存在してきたことは否定できないということです。法の支配をこのように理解する立場からは、「理性的な人々の行動を規制するために法が備えるべき性質」(長谷部, ibid)という意味に限定し、(就中、ハードケースにおいてそれを確定することが不可能な)「正しい内容を法に求める法原理」という過重な期待を放棄して、

(乙)法の支配の内容-世界
「独立の裁判所のコントロール」を前提にして「国家機関の行動を一般的・抽象的で事前に公示される明確な法によって拘束することによって国民の自由を保障しようとする理念」(『憲法』(新世社)p.21)
    

と法の支配を捉える見方が英米も含め世界の現在の通説であろうと思います。


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■保守主義と法の支配の交錯
前項で紹介した法の支配の意味を踏まえるならば、憲法の事物の本性として<憲法>の一部である法の支配の原理は、<憲法=国家>の内容としては適正手続き(due process of law)に収斂することになり、具体的な規範の内容を提供するものではないと思います。

而して、世の保守主義を掲げる論者の中には、「法は発明され創られるものではなく発見されるものという法の観念」という1世紀前の英米の法の支配理解を根拠にして、憲法典ではない憲法慣習を憲法の内容と主張する向きもあるようです。けれども、その英米の1世紀前の法の支配の観念は、前項でも記した如く、実は、「裁判所によって発見された法の優位性の主張」であり、有権解釈者でもない論者が「自分が守りたいルールを「法」と呼ぶ」ことを正当化するロジックではないのです(尚、私の考える言葉の正確な意味での英米流の保守主義の内容に関しては下記拙稿をご参照ください)。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html


さて、法の支配を巡る帰結から、「国家が先か憲法が先か」はどう答えることができるか。蓋し、due process of law として法の支配の原理を捉える場合、その核心は、

・正しい法の内容を一義的に定めうるとする教条の否定
・慣習と伝統に裏打ちされた手続的正義への信頼    


に収斂すると思います。すなわち、価値相対主義と実存主義の顕揚です。こう捉えることが満更我田引水の類ではないとすれば、法の支配は保守主義と相補的と言える。他方、自己の単なる願望を「発見されるべき法」と詐称する憲法無効論の論者等は法の支配の対極にあると言うべきでしょう。

而して、(イ)<法体系としての国家>が憲法典を超える民族の実存の規範的記述とすれば、<国家>には憲法典の諸条項に優先する規範が含まれており、また、(ロ)<憲法>の規範意味を確定する国民の法意識の実存が<国家>に他ならない以上、憲法典の認識に<国家>が先行することも明らかではなかろうか。ならば、「卵と鶏」問題の解答は「国家」である。と、そう私は考えています。


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(2010年5月9日:yahoo版にアップロード)

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こんにちは。

大量のカキコお疲れ様です。

何をどのように相対化して語ろうとも、
ルールはルール、規則は規則です。

国家と憲法が後だろうが先だろうが、
憲法をあれこれ相対化して語るような暇があったら、
ルールや規則にキチンと従う考え方を身に付けるのが吉でしょう。
プロフィール

KABU

Author:KABU
大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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