『戦争の克服』☆これは戦後民主主義者の自暴自棄か現代落語か?

sensoukokufuku


その帯び広告にはこう書いてあった。「地上最強の自由人(博奕打ち兼業作家)が、当代随一の哲学者と国際法学者に、素朴な疑問をぶつけました! 戦争って何だろう? それをなくすことは可能なの?」、と。阿部浩己・鵜飼哲・森巣博『戦争の克服』(集英社新書・2006年6月)の帯び広告。

日本に限定したとしても、誰が当代随一の「哲学者」か「国際法学者」なのかについて異議を記すなどは大人気ないことだろう。それくらいは私も承知している。けれども、「当代随一の哲学者と国際法学者」が鼎談に加わっておられるにしては、本書は到底「戦争って何だろう? それをなくすことは可能なの?」の問いに答えるものとは言えない。これが正直な読後感である。

本書は異質なる三氏の対談と鼎談である。それは、しかし、森巣さんの言葉を借りれば「チューサン階級」(=中学三年生程度の知識)による戦争を巡る床屋談義や飲み屋の与太話の域を大きく出るものではない。よって、「戦争とは何か/国際法的に許される戦争というものは存在するの か」の問いを巡る外交史や国際法学史に登場した幾つかのアイデア(★)に関する本書の説明と検討を批判をするなどはそれこそ大人気ないことである。

而して、本記事では本書の死角と思われる1点を紹介し、もって、「戦争とは何か」を考える上での本書の限界と偏りを指摘したい。ある議論を批判するに際して、たとえその中心を外れているにせよ致命傷は1個でもって十分だろうから。尚、戦争を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿を参照いただければ嬉しいです。

・無防備地域宣言運動の意図と心性
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E61.html

・民衆法廷と無防備地区宣言の妄想と詐術
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E54.html

・国連憲章における安全保障制度の整理
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E23.htm

★戦争とは何かに関する代表的主張(cf.本書pp.148-152)
①聖戦論:「正しい戦争と正しくない戦争が存在する」という主張→「何をもって正しい戦争と正しくない戦争を区別するのか、あるいは、誰がその正邪の判定を行うのか」がこの議論の難点。②無差別戦争観:「戦争には正しい/正しくないの区別は存在しない」よって「国際法と国際政治の課題は、事実としての戦争現象に起因する惨禍と悲惨をいかにミニマムにするかに収斂する」という主張。③違法戦争観:「すべての戦争は違法である」という主張→例えば、国連憲章に定める3種類の武力行使のパターン(=国連軍等に担保される集団的安全保障・個別の集団的自衛権・個別の自衛権の行使の三者)以外の武力行使は許されない。

この三者は順に19世紀以前→20世紀前半→20世紀後半の代表的な戦争観ではあるが、これらすべてを<戦争観のメニュー>として持っている2006年の現在、これらは必ずしも矛盾する主張ではない。例えば、違法戦争観を国際法的な安全保障秩序に関する理解枠組みと看做し、かつ、その理解枠組みの変更原理として無差別戦争観を考え、而して、それらの枠組みの中にその場を占める個別的や集団的の自衛権行使を聖戦論によって正当化することは十分に可能である。けして、違法戦争観が絶対に正しく、よって、アメリカの単独行動主義を基礎づける<聖戦論の再生>は論理的にも思想的にも間違いというわけではない。



本書の死角とは何か? それは戦争と死刑をパラレルにとらえ、国家や為政者には戦争にせよ死刑にせよ人を殺すなんらの権限も正当性もないと論じるコンテクストで語られている。本書終章を森巣さんは谷川俊太郎さんの詩を引用して結ばれている(pp.233-234)。

谷川俊太郎の詩の一節に、こんなのがあります。
暗殺とは一人が一人を殺すこと
戦争とは万人が万人を殺すこと
死刑とは万人が一人を殺すこと
突き詰めれば、戦争は、死刑や殺人と同じく、眼前の人間を文化包丁で刺せるかどうかというレベルでとらえるべきものでしょ。違いますかね?


違いますかね? 私は違うと思う。
谷川さんの詩を私も使わせていただければ、「一人が万人を殺すこと」とはテロリズムであり;クメールジュール(=ポルポト派)や中国の文化大革命、オーム真理教や戦後民主主義というカルト的独裁の所業と思想であろうか。ならば、「万人」と「一人」の<2×2>のすべての組み合わせを暗殺・テロ・戦争・死刑と考えるとき、各々の場合で行為の主体に課せられる「汝殺すなかれ」と「汝殺すべし」という規範の源泉は異なるだろうからである。この経緯を森巣-阿部-鵜飼さんは次の引用の如く看過しておられる(pp.231-232)。


阿部:
森巣さんは、死刑廃止ネットに面白いことを書いているじゃないですか。(中略)

森巣:
アムネスティ・インターナショナルの公式サイトのことですか。(中略)そこで書いたのは、次のようなことです。死刑というのは、国民の名のもとに国家が犯す殺人である。そうであるなら、死刑執行を刑務官に委託するのはどう考えても不誠実ではなかろうか。だから、国民自身がやりましょう。具体的には、選挙人名簿から無作為抽出で執行者を選んでやってもらいましょう。手を汚さない、絞首刑みたいなやり方ではなく、千枚通しとか文化包丁で、血塗れになりながらやりましょう、と提案しました。(中略)

そういうシステムができあがれば死刑は一発でなくなります。あなたは、文化包丁で眼前の人間を刺せますか。被害者の家族なら「やりたい」と言ってくる人が出てくるかもしれないけれど、あくまで無作為抽出で選ぶ。死刑は殺人だっていうことを、まずは理解していただきたい。

鵜飼:
人の命を殺めることの重さにおいて、死刑の問題と戦争の問題は同じなんです。

森巣:
要するに、私は殺す側の人間になりたくないのですよ。勝手に誰かが自分に代わって、殺人をしていることにも耐えられない。私の名前を使って、人を殺すな。やるのなら自分でやってくれ。(中略)

阿部:
平和主義を貫徹するなら、死刑制度の問題も同時に考えないといけないですよね(後略、以上引用終了)


森巣さんの<新死刑制度>の比喩に私は納得できない。架空の設定の上で推論を重ねても大した意味はないだろうけれども、無作為抽出で<新死刑制度の執行者>に選ばれたならば(児童殺人事件を始めあるタイプの執行に関しては進んで、そして、他の多くの事件では国民の義務と割り切って)その責務を引き受ける国民は皆無ではないと思うからである。

また、森巣さんの予想が正しいとして、その場合、次々に辞退者が出るのであればいずれその死刑囚の被害者・被害者遺族に順番が廻ってくるのではなかろうか。ならば、「そういうシステムができあがれば死刑は一発でなくなります」という森巣さんの予測は、「次々に辞退者が出たとしても(誰かが引き受けるのならば)死刑は執行される」という法の通常の運用を鑑みれば、単なる妄想と願望の表明でしかない。蓋し、死刑の執行者に課せられる「汝殺すなかれ」と「汝殺すべし」という重層的な規範の構造を森巣さんが看過していることは明らかだろう。

国家による刑罰権の行使は被害者・被害者遺族の復讐の権利の代行であり、逆に言えば、刑罰権を独占することで国家は被害者・被害者遺族から復讐の権利を奪っている。また、刑罰は犯罪者や犯罪を犯す蓋然性の顕著な者から社会を防衛すると同時に(=犯罪者の教化と排除を通じて社会を犯罪者から防衛すると同時に)、犯罪によって空洞化された刑法規範の権威を回復する機能をも果たしている。前者が目的刑主義-刑罰の特別予防機能、後者が応報刑主義-刑罰の一般予防機能と呼ばれるものである。

畢竟、国家による刑罰権の独占は、被害者・被害者遺族やその地域社会の自力救済を容認することで社会秩序が不安定に陥ることを防ぐためのものである。ならば、森巣さんの比喩のごとく一部とはいえ復讐の契機を死刑に復活するのならば、「まってました!」と執行者のポジションを求める国民が名乗り出てくると予想することは満更荒唐無稽な話しではないだろう。その場合、人類の刑罰史を想起すれば、文化包丁などのスマートな道具ではなく素手で撲殺する等を希望する執行者さえ皆無ではないと思う(犯罪と刑罰に関する私の基本的な考えについてはとりあえず下記拙稿を参照いただきたい)。

・犯罪と刑罰を歪める戦後民主主義の磁場と心性
 http://www31.ocn.ne.jp/~matsuo2000/E/E48.htm

「目には目を」で知られるタリオの法を支持したカントの応報刑思想を引き合いに出すまでもなく、死刑執行において「殺すべし」という規範は、「犯罪者に罪を償わせることで、相手を対等な人格と認める」という応報主義の真髄(=人格の平等性を認める道徳的価値観)に発するものである。要は、死刑執行者に課せられる「殺すなかれ」という道徳規範と「殺すべし」という法規範は矛盾する。そして、どちらの規範に執行者が従うかは彼女/彼が抱く価値観や個人的な行為規範の内容によって決定されることになろう。

そして、犯罪に対する復讐の推奨と法規範の権威の維持自体が実定道徳の内容に根ざすものでもあり、かつ、「戦争といえども死刑の執行といえども、絶対に人を殺してはならない」という命題は法規範に違反するだけでなく実定道徳としもそう確たる根拠を持ち合わせてはいない(それは、そう主張する論者の個人的な妄想と願望にすぎない)。これらのことを踏まえるならば、死刑の執行者が「殺すべし」を選択するはずはないとは誰も断言できないだろう。少なくとも、森巣さんが死刑執行における「殺すなかれ」と「殺すべし」という両規範の源泉の差異を看過していることは確実である。

死刑は道徳と法の二重の規制を受ける(他方、暗殺とテロはこれらに個人的-カルト的な特殊な価値観-世界観が命じる「殺すなかれ vs 殺すべし」の命題が加わる)。この経緯は戦争でも同じであり、死刑と戦争をパラレルにとらえる森巣さんの議論は結果的に間違いではない。

けれども、死刑は「殺すなかれ vs 殺すべし」の葛藤を国家が社会の安寧秩序に責任を持つ法共同体内部で執行者に課すのに比し、戦争は戦争に参加する個人から見れば裸の暴力秩序たる国際関係の中で、国家の存立と安全、国民の生存とアイデンティティーを確保する上で「殺すなかれ vs 殺すべし」の葛藤を課す点で異なる。

ならば、「正しい戦争があるのかどうか」を死刑との類似性から解明を試みることはそう生産的なこととは思われない。「殺すなかれ vs 殺すべし」の葛藤が生じるコンテクストが異なるからである。喩えれば、それは日常生活の中での殺人行為と、自分と自分の家族がテロ集団に拉致されている際の正当防衛や緊急避難をパラレルに扱う愚に近い。死刑と戦争は規範の重層性に起因する葛藤を行為者に課す点では同じであるにしても国家の内外を境に非対称的である。

畢竟、死刑が「文化包丁」によって廃止されることが難しいように、「文化包丁」によって戦争が克服されることもまた難しい。蓋し、本書『戦争の克服』は国際法と法哲学から大人が真面目に戦争を考える参考にはあまり役立たない;それは、戦後民主主義者の自暴自棄かむしろ現代落語の類に近いのではなかろうか。私はそう考える。(2006年6月18日:yahoo版にアップロード)



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