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保守主義の再定義

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保守主義とは何か? このテーマが日本でも世界でもいよいよ実践的な重要性を帯びてきていると思います。グローバル化、すなわち、資本主義の一層の昂進に対して人類はいかにしてその生活と生存を守ることができるのか。あるいは、資本主義と鋭く対立する側面も持ちながらも、ある意味、グローバル化の裏面でもあるリベラリズムの浸透、「地球市民」なるものを標榜する伝統破壊のこの思想潮流に保守主義はいかにして拮抗し得るのか。これらは、『大学』に所謂「修身斉家治国平天下」の四個すべてのプロセスに影響を与えつつあるのではないか、なぜならば、「修身斉家治国平天下」を成し遂げるための主体的格率(maxim)である「格物致知誠意正心」の内容確定において、保守主義の意味内容、あるいは、保守主義とリベラリズムの関係性はパラメーターとして機能するだろうからです。

私はこのブログで既に「保守主義とは何か」という問いに対して自説を展開しています(下記拙稿参照)。畢竟、自己の自己同一性を保つための恒常的な伝統の再構築と、そのような伝統を公共的で実定的な社会規範に高める漸進の前進の営み。これこそが保守主義の本性である、と。すなわち、

保守主義とは、世界と社会と歴史についての総合的で体系的な理論ではなく、ある歴史的に特殊な特徴を持った「社会認識のための姿勢」と「社会改革を実践する態度」であり、その基盤は「人間存在の有限性」と「自己の歴史的特殊性」に対する確信に遡り得る「実存主義的な価値相対主義」「経験主義的な現実主義」である。畢竟、伝統は自己の自己同一性を形成する不可欠のパーツであるがゆえに保ち守られるに値する価値を持つ、と。


恒常的な伝統の再構築。これを(シャム双生児の関係にあると看做し得る)戦後民主主義を信奉する勢力と憲法無効論なる妄想に囚われている国粋馬鹿右翼という左右の観念的な社会主義と比べれば、「保守主義」と「社会主義≒リベラリズム」の違いは明確だと思います。

而して、保守主義の具体的な意味内容については旧稿に譲り、本稿は上で述べた如き保守主義の本性から演繹される、①伝統尊重、②人間の有限性の確信と反教条主義、③国家権力にあまり多くを期待しない心性といった保守主義のエッセンスと私が考えるものに絞って自説を敷衍したものです。

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html


◆保守主義と伝統の多様性と単一性

旧稿でも書いたことですが、「保守主義」の再定義の前哨として、「言葉の意味」について確認しておきます。蓋し、私はどの用語を誰がどのような意味で使用するかは、それが、(甲)専門家コミュニティー内部で確立している一般的な用語法に従っているか、そうでなければ、(乙)その話者が事前に当該の言葉を明確に定義している限り基本的に自由であると考えます。

すなわち、概念実在論が想定していたような「言葉の本当の意味」なるものはこの世に存在しないのであって、言葉を使った相互討論が生産的で有意味なものになるか否かは、「言葉の正しい意味」ではなく、討論参加者の「言葉の正しい使用方法やマナー」に依存する、と。概念実在論を最終的に葬った分析哲学に従い私はそう考えています(尚、この論点に関しては下記拙稿の前段を参照してください)。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html

蓋し、「保守主義」という言葉もまた本質的に多様ならざるを得ない。まして、例えば、イスラームとアメリカの伝統が異なるように各国各民族が唱える「保守主義」の具体的の意味内容も異ならざるを得ない。この経緯は共時的のみならず通時的な要因からもまた加速される。

すなわち、土台、「主権国家」「民族国家」、否、「民族」という概念自体が極めて歴史的なものであり、畢竟、一般に「主権国家」と「主権国家間の関係としての国際法秩序」を確立したとされるウェストファリアー条約体制(1648年)の後も1世紀余り、近世と近代の渾然融合は続いたのであって18世紀半ばまでは「主権国家」も「民族」も地球上に存在してはいなかった。ならば、「日本の固有の伝統」や所謂「法の支配」を可能にする「英国社会に普遍的な法」なるものがこの世に存在し得ないこともまた当然でしょう。後者に関しては、名誉革命(1689年)における「議会主権の確立」、および、階級対立の先鋭化を受けた19世紀後半以降の制定法の社会化とコモンローに対する制定法の優位の確立を想起すれば自明な如く、「法の支配」なる原理にいう「法」の意味もまた極めて歴史的で可変性を帯びたものなのですから。

実際、我が国においては、幕末・明治初葉までは「国家」とは統治の主体たる大名家中と統治の客体たる領地・領民を指す、ローカルガバメントに関する言葉でした。更に、ゲルナーが喝破した如く、例えば、現在、我々が「日本的なもの」「日本古来のもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、「教育勅語」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた表象にすぎないこと。これまた否定できない事実なのです。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。
    
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】


「国家」も「民族」も歴史的表象でありその意味内容も可変的で多様なものとすれば、これらを依代とする「保守主義」の意味内容もまた可変的で多様なものにならざるを得ないことは自明でしょう。これが、先に述べた、保守主義の意味内容は共時的のみならず通時的な要因からも本質的に多様ならざるを得ないという私の主張の背景です。


では、「日本の伝統」などはこの世に存在しないのか? 
保守主義とは定まった意味内容を欠く空疎な社会思想なのか?

否、です。伝統とは、よって、保守主義とは伝統の恒常的な再構築の営みに他ならず、「日本的なもの」「日本古来のもの」は厳然と存在している。ただ、それら個々の表現形が通時的な普遍性を必ずしも持たないだけのこと。つまり、伝統とは外化され物象化され物神性を帯びる個々の事物ではなく、伝統を再構築する人々の意識と規範と行為に憑依する(ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」(★)としての)何ものかに他ならない。

★註:世界Ⅲ
カール・ポパーは『客観的知識』第3章・第4章で、「考えられる対象」と「考える行為」と「考えられた内容」とは、相互に密接な関係はあるだろうが、それぞれ別の独自法則性を持つ領域であるとして、それぞれを世界Ⅰ・世界Ⅱ・世界Ⅲと名づけ区別しています。蓋し、学問体系・常識・生活のノウハウ等々は、すべて、公共的な言説空間に間主観的に存在するものであり、もちろん、それらはすべて人間の主観が産み出した産物には違いないけれど、他方、それが産み出された後、間主観性を帯びて以降は、最早、「非主権的-客観的」な知識と言うべきものである。と、そうポパーは考えます。

単なる「物の世界:世界Ⅰ」や「主観の世界:世界Ⅱ」とは別次元の「間主観的な知の世界:世界Ⅲ」は確かに存在している。例えば、誰しも、義経が頼朝に危険視されて討伐された事実を知っている。あるいは、かぐや姫が求婚者を体よくあしらって最後には月の世界に帰る結末を知っているし、憲法無効論の信徒がいかに悲憤慷慨しようが、外国人地方選挙権の賛否を巡る「保守派-良識派」と「リベラル派-売国派」の議論は現行の日本国憲法の条規や最高裁の過去の判決を前提にして戦われている。歴史的事実も御伽噺も現行憲法も「物の世界:世界Ⅰ」ではなく、論者の主観にのみその場を占めるものでしかないにも関わらずそれらは間違いなく間主観性を帯びているのですから。



畢竟、歌舞伎や狂言が日本の伝統のパーツであるのと全く同じ論理的な資格で劇団四季のミュージカルも新国劇のオペラも日本の伝統のパーツである。ボンカレーもカップヌードルも、女子高校生のセーラー服も甲子園の球児達の仕草やそぶりも日本の伝統のパーツなのです。換言すれば、伝統とは伝統的な個物と制度を恒常的に再構築するコミュニティーメンバーの心性と行動に他ならず、保守主義とはそのような伝統的の個物と制度の再構築に価値を置く社会思想であり、この意味の伝統と保守主義は、「共時的-通時的」に単一の表象として「世界Ⅲ」の中に厳然と存在している。

而して、現行憲法第1章にインカーネトしている「皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合する<政治的神話>も、所謂「夫婦別姓」を断乎拒否する「家父長制的な家族イデオロギー」も、そして、「教育勅語」もまた日本社会の醇風美俗であり日本人が堅持すべき伝統である。と、そう私は考えています。

本節の帰結を定式化すれば以下の通り、

(甲)伝統とは事実ではなく表象である。それは「世界Ⅲ」にその場を占めている

(乙)伝統の価値は事実から演繹されるのではなく伝統に価値を置くコミュニティーメンバーの心性によって効力を獲得する

(丙)民族が異なれば、また、時代が異なれば、あるいは、属する社会階層や居住する地域の生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人との社会関係のあり方)が異なれば伝統の内容もまた異なってくる。その意味での伝統と伝統に価値を置く保守主義の意味内容は極めて多様である

(丁)伝統に価値置く心性と伝統の恒常的な再構築という行動パターンは諸民族・諸国民に広く観察されるのであり、それらの伝統と伝統の恒常的な再構築に価値を置く社会思想は単一の思想類型と言える。畢竟、保守主義とはそのような思想類型に他ならない


尚、保守主義の基盤たる<伝統>というものの、<私>と<我々>に対するたち現れ方をどう捉えるのか。私はこの問題を、(イ)「存在論-認識論」的にはフッサールの現象学、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、他方、(ロ)「認識論-価値論」の領域においては、新カント派の価値相対主義の実践哲学から基礎づけています。而して、このことを巡る私の基本的な考えについては、とりあえず下記拙稿をご参照ください。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

・女系天皇は憲法違反か
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879735.html

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html


hoshinoakichandoronjo



◆反教条主義としての保守主義

資本主義が一層その勢力を拡大深化させている21世紀の現在、保守主義の死活的に重要な意味内容として私はその「反教条主義」に注目しています。詳細は旧稿に譲るとして、「保守主義と反教条主義の論理的関連」は次のように整理できると思います。

◎伝統に価値を置く心性
・伝統の苗床としての家族とコミュニティーと民族に価値を置く心性
・伝統以外の新規な理論や教説にいかがわしさを感じる心性
・この世に人知の及ばない領域の存在を肯定する、人間の有限性に関する確信
・価値相対主義的な世界観の採用と自己の格率としての伝統的な社会規範の選択
・自己と異なる伝統に価値を置く「他者=異邦人」の保守主義の尊重
・価値相対主義を軽視する左右の教条主義に対する軽蔑


保守主義をこのような心性に貫かれた社会思想と措定するとき、最も豊潤で中庸を得た保守主義の具体的モデルとしては、()そのコミュニティーに自生的な法規範が認める権利を不可譲のものと捉え、かつ、()具体的な事件における司法においてその法規範を実際に運用することで、()国家権力の人為的な立法に頼ることなく社会に生起する紛争を可能な限り解決するという「社会的擬制-イデオロギー」として英米流の保守主義は定式化できると私は考えています(★)。

より一般的な社会統制の場面を背景に換言すれば、()そのコミュニティーに自生的な社会規範と慣習に価値を認めること、()教条的な理論による予定調和的な紛争の一括的な解決ではなく、具体的な個々の事件毎に公共的な言説空間における討議を通して、()国家権力の行使をできるだけ避けながら社会に生起する紛争を可能な限り解決することこそ、保守主義の社会思想と親和的で整合的な社会統合の仕組ではないか。と、そう私は考えるのです。

而して、旧憲法に比べアメリカ憲法との親近性を増した憲法典を実定憲法の一斑としている我が国であれば、社会思想の領域でも英米流のマチュアーな保守主義を移入することは十分に可能ではないか。いずれにせよ、このような保守主義が「政治主導」を掲げ、権力の万能感に高揚して理性を喪失しつつあると見えなくもない民主党政権の「リベラリズム≒社会主義」、そして、「地球市民」なる空虚な表象を実体と錯覚している憲法9条教の主張、あるいは、ヘーゲルばりの「国家アイデンティティ=国体」の普遍性を夢想する憲法無効論とは対極にあることは間違いないと思います。尚、英米流の保守主義、就中、所謂「法の支配」の観念・理念との関連で<憲法>の正当性をいかに考えるかという論点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541275.html

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

★註:保守主義と英国分析法学
旧稿でも記した如く、日本では英米の保守主義を精力的に紹介しておられる中川八洋氏の著書、例えば、『保守主義の哲学』(2004年)等々の影響か、コモンローと司法ではなく法の社会化を目指し立法と国会主権を果敢に推進したベンサムを保守主義の対極と理解する論者もまま見かけます。

けれども、世界的に見ても英国の分析法学研究の先駆者と言える八木鉄男先生が、例えば、『分析法学の潮流―法の概念を中心として』(1962年)、『分析法学の研究』(1977年)で提唱されたように、この認識は片手落ちと言うべきもの。なぜならば、法理論面でのベンサムの参謀格ジョン・オースティンの分析法学に結晶しているように、「法=主権者命令説」と呼ばれる「ベンサム-オースティン」の主張は、法が社会統制に容喙できる範囲と権威を限定して、以って、広く実定道徳による社会統制を考えていたと解すべきだからです。蓋し、それが所詮、歴史的事実ではない「物語=イデオロギー」であることを踏まえるならば、所謂「法の支配」で言うところの「法」と「道徳」にはそう大きな違いはないと考えられるから。と、そう私は考えています。



fukakyon3



◆国家と保守主義

保守主義は国家権力の積極的行使には疑義を呈する社会思想です。この一点では、保守主義は資本主義、就中、自由放任の旗幟を鮮明にした新自由主義と極めて良好な関係にあると言える。他方、保守主義は、地域の文化と生態学的社会構造を解体し伝統と歴史を相対化・無力化する資本主義の傾向(その制御が難しいという意味で盲目的で、かつ、時間的にも地域的にも無限の資本の自己増殖性)とは鋭く対立し、国家による資本主義の制御を正当化する社会思想でもある。蓋し、保守主義と国家は資本主義という与件を仲立ちにして重層的な矛盾の関係にあると言えると思います。

畢竟、元来、「デモクラシー」が小規模の社会集団を想定した社会思想であったのとパラレルに、おそらく、保守主義は伝統と歴史、文化と生態学的社会構造を共有する比較的小規模な地域コミュニティーを苗床として成立したのだと思います。保守主義は国家や民族とは必ずしも論理必然に結びつくものではなかった、と。

けれども、失楽園。

繰り返しになりますが、「18世紀-19世紀」の近代主権国家の成立以降、すなわち、「民族」なるものが(よって、「ナショナリズム」が)地球上に初めてその姿を現して以降、就中、資本主義が社会主義を崩壊させ、(アメリカを唯一の超大国に押し上げた同じ資本主義が)その唯一の超大国であったアメリカにさえ「大政奉還」を迫りつつあるグローバル化の昂進著しい現在、保守主義は地域コミュニティーの社会統合を専ら担う社会思想ではなくなった。

蓋し、保守主義はその意味具体的内容の供給を、元来、保守主義と親和的ではない「国家=民族」からも受けざるを得なくなったのであり、逆に、保守主義は近代主権国家の社会統合を担う「政治的神話=イデオロギー」としてのナショナリズムをも包含するに至ったの、鴨。それは、20数億年前の太古の海で、元来、別の生命体であった原ミトコンドリアと原核生物が合体して真核生物が生まれたようなもの、鴨。と、そう私は考えています。整理すれば以下の通り、

◎保守主義の弁証法的変遷と国家との重層的関係の成立
(1)地域コミュニティーの社会思想としての保守主義
   ↓
(2)資本主義の成立
   ⇔資本主義の自由放任性と親和的な保守主義
   ↓
(3)近代主権国家・民族国家の成立
   ⇔国家の権力行使と国家の正当性と疎遠な保守主義
   ↓
(4)主権国家の社会思想としての保守主義
   ↓
(5)グローバル化の時代の保守主義(A+B)
 ●グローバル化の時代の保守主義-保守主義A
 ・国家に期待せず国家の介入を忌避する社会思想
 ・ヘーゲル的な絶対精神としての国家観念を忌避する社会思想
 ●グローバル化の時代の保守主義-保守主義B
 ・国家による資本主義の積極的な制御を正当化する社会思想
 ・ナショナリズムを包摂するともすれば排他的な社会思想


言うまでもなく、「国家」も「民族」もフィクションであり擬制にすぎません。けれども、ケルゼンが見事に定式化したように(例えば「巨人軍」などこの世に物理的に存在しないにもかかわらず、谷や小笠原のスリーランホームランが出れば「巨人」に3点が「記録される=帰属する」ことでも分かるように)それは権利と義務、意味と価値が帰属する(法システムの世界で生成された)「帰属点」なのです。

而して、ゲルナーが喝破した如く、「国家」や「民族」、そして、「ナショナリズム」の意義はそれが単なるイデオロギーにすぎないことでは毫も否定されない。それは、実際に、国内的には社会統合と社会統制の機能を果たしており、対外的には諸国民の生存と活動を保障し、更に、グローバル化の昂進著しい現在では、それは資本主義から諸個人の生存と生活を守り、加えて、資本主義がもたらす諸個人のアイデンティティクライシスを緩和して、当該の国家社会がアノミー化することを防ぐ、近代国家成立以降の人類にとっては死活的に重要な「イデオロギー=世界Ⅲ」だからです。

私が尊敬してやまない小平先生の顰に倣えば、「黒猫も白猫も鼠を取る猫が良い猫」であるように「人間の社会生活を安定させ、人間の生存と生活を保障するイデオロギーは良いイデオロギー」であり、現在において国家も民族もナショナリズムも全体として見れば良いイデオロギーと言える。と、そう私は考えています。

蓋し、近代主権国家の成立以降、比喩的に言えば、人間は「ある国家のユニフォーム」を纏わない限り、国内的にも国際的にも行動することが難しくなった。つまり、ユニフォームは単なる記号にすぎないにしても、ユニフォームを着ていることが国の内外を問わず社会的活動というゲームに参画する基本的なルールになっているということ。ならば、どこの国のユニフォームを着るべきかというルールには白黒はっきり言えばほとんど必然性はないけれども、どこかのユニフォームを着用しなければならないというルールと、そして、とりあえずどこのユニフォームを着るべきかのルールが定まっていることには十分な合理性がある。而して、ナショナリズムを包摂する(反インターナショナリズムとしての)現在の保守主義は、そのような、国家規模のユニフォームの着用ルールを正当化する機能をも果たしているのではないでしょうか。尚、この点に関しては下記拙稿を是非ご参照いただければ嬉しいです。

・外国人がいっぱい
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-198.html

・揺らぎの中の企業文化
 http://kabu2kaiba.blog119.fc2.com/blog-entry-199.html

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html


上記の考察を踏まえ、我々保守改革派が現下の日本において保守主義に盛り込むべき具体的意味内容は如何。このことを最後に一瞥しておきたいと思います。

蓋し、それは、①「自己責任の原則」が貫徹される、かつ、誠実さと勤勉さとを備えた敗者には「何度でも勝負する機会」を与える活気溢れ社会、および、②伝統の恒常的な再生、すなわち、日本社会統合のための<政治的神話>として「日本=皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」のイデオロギーを常に再構築する社会、更には、③そのような日本社会を統合する<政治的神話>をリスペクトする限り、能力ある善良なる外国籍日本市民を排外することのない開かれた社会、そして、④地方コミュニティー再生にプライオリティーを置く社会思想ではないか。

而して、『孟子』「梁上編」に曰く、「無恒産、因無恒心:恒産なくして恒心なし」。そして、『論語』「顔淵編」に曰く、「子貢問政、子曰、足食足兵、民信之矣、子貢曰、必不得已而去、於斯三者、何先、曰去兵、曰必不得已而去、於斯二者、何先、曰去食、自古皆有死、民無信不立」から逆に導かれるように、生存と秩序はすべての社会思想が<政治的神話>として機能する前提条件である。

このことを鑑みれば、我々が希求すべき保守主義の意味内容には、⑤国防と食糧は当然、歴史認識を巡るイデオロギー戦を含むあらゆる部面での<国の安全保障>において、自国は自国で守る意思と力の涵養を怠らず、他方、狡猾誠実に同盟国との連帯を維持強化できる現実主義的な国家、そして、⑥国際法と確立した国際政治の慣習を遵守する国家を正当化する内容もまた盛り込まれるべきである。


ならば、畢竟、例えば、かくの如き無根拠な言説を、単に自己の願望にすぎない言説を、他者をも拘束する根拠を備えた<間主観性のある言説>と勝手に勘違いしている論者は、おそらく、労働価値説と唯物史観の正しさを信じ込んだ上で、護岸不遜で教条主義的な言説を流布したマルクス主義者と、その理路の粗雑さと自己中的の心性においてほとんど差はないのではないでしょうか。それら右からの社会主義者曰く、

女系容認派は、「女系=皇統断絶」という一番重要な点をどう思われているのか。「女系」で形だけを取り繕ってみても、これは文字通りの「皇統断絶」なのですが・・・。保守派を自任する論者の中には、「国民の支持こそが皇統の根拠」というような暴論をぶっている向きもまま見られますが、保守派を自任しておられる方々は、皆そういう拙劣な発想なのでしょうか? そうであれば、「女系容認派」は極左の極み、「保守」など自称して貰っては迷惑千万ですから、きちんと「民族派」なり「国家社会主義者」なりを標榜していただきたいものです。

民族派は、「愛国心」を保持している分だけ「反日左翼」より幾分かましですが、実のところは「国家社会主義者」であって、「全体主義」の色彩が濃く、「愛国左翼」と呼ぶのが正しいのです。「愛国」と「左翼」が結びつけば、「皇統の根拠は現世の国民による支持である」「現世の我々の意見で皇室典範を変えても良い」などといった異常思想に結実するのです。「法の支配」の意味をきちんと理解していれば、国民などは当然のこと、たとえ、「御皇室」であっても、「天皇陛下」であっても、「皇室典範」に触れる事はならないことは自明の理のはずですから。


英米流の保守主義、もしくは、「法の支配」の原理を曲解して、あるいは曰く、

「皇室典範」とは、皇室の家法ですが、最高の日本国法でもあります。ですから、皇位継承は天皇陛下や皇室が決めるものでさえありません。法の支配の始祖エドワード・コーク卿が国王ジェームス一世に対し、自身の処罰をも覚悟して言った言葉。「国王も神と英国法の下にある!(=英国法には国王といえども従わねばならない)」は英米では有名です。同様に、「天皇陛下・皇室でさえ、皇室典範(=国法)に従って頂かねばならない」と言うのが真の回答です。

況や、一般国民が皇室典範の改正云々を口にすることすら許されないと言うのが、バーク保守主義からの帰結なのです。日本国民にはっきり言っておきますが、小林よしのりや中西輝政のような、嫌米・嫌韓・嫌支那の国粋主義的な民族派の保守論などは暴論の書の類であり、読む価値など皆無です。


と、誠に勇ましい。蓋し、「盲、蛇におじず」「知らんということは強い」とは、さも真実であるなぁー、とつくづく感じる次第(笑)。畢竟、本稿と本稿にリンクを張らせていただいた拙稿で論証したように、これらの主張は、全く、「法概念論-法学方法論」的な根拠を欠いている、それこそ「読む価値など皆無」の素人の戯言にすぎません。

而して、所謂「法の支配」の理解においても、(何が「法の支配」の原理が価値を認める、伝統の中で守られてきた「法ルール」の内容であるかを発見する)司法の介在を考慮することなく、「それを伝統と自分が信じるものが、他者をもアプリオリに拘束する<伝統>である」とのたまう、日本でのみなされるバーク保守主義の奇想天外・荒唐無稽な解釈に閉じこもるが如き「保守主義」ではなく、法律実務の蓄積の点でも法哲学の理論史からも、言葉の正確な意味での「反教条主義としての英米流の保守主義」にこそ、今、日本は学ぶべきではないか。現象学と言語ゲーム論から基礎づけ可能で、かつ、社会学的に観察可能な、国民の「生きられてある生活世界」の中に自生的に形成され国民の多数がそれに<法的確信>を抱いている諸規範と諸価値は確かに存在しているのでしょうから。ならば、それらの規範と価値を、価値相対主義的な謙虚さの上で選び取る決断こそ<保守主義>である。と、そう私は考えています。


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(2010年1月24日-9月17日:yahoo版にアップロード)

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