<法の本質>を穿つ17歳の高校生の投書

おおた1


かなり前のことですが、素晴らしい新聞投書を目にしました。

片や、国際法のイロハも理解できず、「火のないところに煙」を立てて、尖閣諸島問題を「領土問題」にしてしまった民主党政権。他方、「法の支配=コミュニティーの中で自生的に成立した法が存在するという確信と権力に対するそのような法の優位の確信。そして、そのような法は権力から一定程度独立した裁判所によって<発見>されるという認識」、この英米流の「法の支配」の原理を捻じ曲げて、自分達が<法>だと考えたものが、司法の介在なしに、この21世紀の日本社会でも法として効力を持つとのたまう「保守主義者」が散見される現在、改めて読み返してみても、<法の本質>を考える上で、つまり、「法とは何か」の問いに答える契機として実に優れた投書だったと思います。2005年2月25日、もう5年前のこと。

5年前の投書。ただ、その値打ちは益々高まっているの、鴨。畢竟、普天間基地問題といい尖閣諸島問題といい民主党政権の国際法を巡る対処・措置・施策の拙劣さ、逆に、それこそ、(所謂「法の支配」の原理を最終的に退けた、英国の)国会主権主義を端的に吐露した標語とされる、「下院は、男を女に、女を男に変えること以外は何でもできる」(自然科学的に不可能なこと以外は何でもできる)と言わんばかりの、子供手当て・農家の戸別補償の導入、高校無償化実施等々の蛮行、そして、外国人地方選挙権付与法案推進等々の国家解体の策動に顕著な内政における民主党政権の横暴を想起するに、この投書の値打ちを改めて感じないわけにはいきません。

蓋し、「悪法も法である。而して、悪法は自体が悪法であることの責任を、すなわち、悪法を担った政権はその責任を政治的・道徳的に負わなければならない」、と。ならば、民主党政権がその汚物溜から汲み出し撒き散らしている悪法も法ではあるが、民主党政権とその「汚物=悪法」は、道徳的と政治的な責任を負わなければならないし、その責任は実定道徳的なものすなわち<憲法>的な責任である、と。

以下、その投書を紹介した記事再録です。尚、「法の支配」および「法の本質」を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。



悪法も法である。而して、悪法は自体が悪法であることの責任を
政治的・道徳的に負わなければならない


・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59879748.html

・憲法と常識(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58258370.html


おおた2


素晴らしい新聞投書があった。一昨日、2月25日、朝日新聞・東京本社版の『声』欄。東京都世田谷区在住の(まだ!)17歳の高校3年生の方。法ルールのあり方について、実によくその本質を理解しておられるものだと感動しました。かって、アリストテーレースは「人間は「ポリス的=社会的&政治的」な存在」と喝破し、26歳の青年カール・マルクスは『経済・哲学草稿』(1843年-1845年)の中で、人間の本質を<類的存在>と規定しましたが、この投書子の女子高生が見出した<人と社会の関係>はこれら社会思想史上のビッグネームの知見と通底している。教育の劣化、教育の崩壊が喧伝される感のある昨今、<社会の一員としての自分>ということについてこうもきちんと理解しておられる若い世代の存在を知って嬉しく思いました。そんな感想を抱いた投書は次の通り(以下、適宜要約しつつ引用)。


「私は高校3年生だ。同学年の多くが18歳なのに、3月3日が誕生日の私はまだ17歳だ。以前は自分が周りの友達より若くいられることに、ちょっとした優越感さえ抱いていた。ところが最近、喜んでいられない問題となってしまった」、と。

「喜んでいられない問題」とは、「運転免許を取得しようと教習所に行った」際や、「友達と一緒にアルバイトに応募」したときも、「誕生日が1ヵ月」だけしか違わない18歳の友達は受け入れられたのに、17歳である投書子は門前払いよろしく断られたということである。そこで彼女は考えた。

「私は思い知らされた。最初は免許もアルバイトも、あと1ヵ月で18歳なんだから何とか大目に見てもらえるだろうと思っていた。しかし、よく考えてみればどちらも大きな社会とつながっている。たった1ヵ月のことでもと思うが、ルールはルールなのである」、と。

この体験から投書子は、「いま、改めて18歳という年齢の重みを実感することができてよかった。今年の誕生日はいつもと違った気持ちで迎えられそうだ」と感想を述べ投書を締め括る(以上、要約と引用終了)。



ここには法や道徳という社会的ルールの本質が見事にとらえられてはいないか。

すなわち、(イ)ルールの内容自体には大概の場合「その規定と異なる他の内容はなりたたない」という程の必然性はない。しかし、(ロ)あるルールが社会的に一度決められたなら、それがどのような内容のルールだとしても、その「ルールを守ること自体」は社会的に尊重されるべき意義があり、(ハ)内容としては必然性のないルールであっても、そのようなルールをきちんと守る態度と行動は社会のメンバーとしての自分のアイデンティティーとプライドを満たすものだ、と。

このような認識を私はこの投書に読み取ったのです。蓋し、それは単なる「長いものには巻かれろ」式の「悪法も法なり」という処世術的でシニカルな態度ではなく、「自己の人格の品格を高めないでは満足しない欲求」に貫かれた、「自己責任の原則」と親しい保守主義の態度ではありますまいか。

ちなみに、この(イ)~(ハ)の認識は、現在の(分析哲学と功利主義を基盤とする)英米流の法哲学では定番と言っていい「選択問題」の認識とパラレルなもだと思います。繰り返しになりますが、要は、「赤信号」が物理的に「赤色」である必然性はあまりないかもしれないけれど、「赤信号=止まれ!」というルールが社会に成立している事実には意味があり、本来必然性の乏しいルールに従うべきだというその認識と態度は貴いものだというアイデアです。閑話休題。


而して、投書の認識は、古くはソークラテースが見出し、また、近世においてはカントが唱えたところのものとも轍を一にしているの、鴨。それは、形式的には「悪法に従うこと」と「悪法に反抗すること」の比較考量における後者の優位の主張であり、実質的には「自由とは法に従う自覚的な行為者のみが享受できる褒賞」なのだという認識です。蓋し、この認識ゆえに、ソークラテースは悪法に従い悠然と毒杯を仰ぎ、他方、『たんなる理性の限界内の宗教』(1793年)を巡り、プロイセン当局から、宗教に関する一切の著作と講義を禁止されたカントは、その禁書勅令に対して「自己の内面の確信を取り消したり否認することは恥ずべきことである。しかし、自己の内面の確信の内容について沈黙を守ることは臣下としての義務である。われわれが語ることはすべて真理でなければならないが、さりとて、しかし、すべての真理を公にしてしまうことは義務とは言えない」と述べたのでしょう。

畢竟、この(イ)~(ハ)の認識を思想の基盤に据えることで、ソークラテースは、有限なる存在たる人間が普遍にかかわる糸口を見出し(よって、有限による無限を巡る思念の営みたる哲学の歴史を開き)、他方、カントは人間が道具や手段としてではなく常に同時に目的として扱われる人間中心の批判哲学の体系を構築し得た。この17歳の女子高校生の投書はそんな人類の知的遺産の中核を占める認識と共鳴している。と、そう私は考えるのです。


確かにほとんどのルールには必然性は見当たらない。例えば、女系天皇制の是非を反芻するに、そう断言しても間違いではないと思います。

ほとんどのルールの内容に必然性はない。
正に、鰯の頭も信心から。

例えば、テニスコートのサイズや野球のインフィールドの規格などは、長年の経験を踏まえて決まったとはいえそう根拠のあるものではないでしょう。大相撲の土俵のサイズも、戦後、力士の大型化にともない変更されてきたくらいですから。まして、サッカーのオフサイドのルールやラクビーのトライの得点などは時代にあわせて随時変更されてきた。しかし、一旦、ルールが決まればそれを尊重する必要が生じる。そして、重要なことはそのルールを尊重する者だけがそのゲームをエンジョイできるということ。而して、そのようなルールを遵守する行為と意志こそがゲーム参加者のアイデンティティーとプライドを保障するということなのです。敷衍します。

ほとんどのルールの内容に必然性はない。
畢竟、形に仏が宿る。

必然性のないルール。しかし、そのルールに従ってプレーヤーが全身全霊を傾け全力を尽くす。そのようなルールに従ったプレーに観客はまた感動し、逆に、だから、ルールを守らない韓国チームは世界のどこでも爪弾きされる。例えば、テニスのグランドスラム大会の決勝戦、マッチポイントに追い込んだプレーヤーの強烈なサーブがフォルトかエースか。ジャッジの判定を伝える言葉を待ってプレーヤーだけでなく観衆は息を飲む。あるいは、1-1で迎えた後半ロスタイム、サッカー日本代表の選手がゴール右隅に突き刺したゴール。ここで副審の旗が水平にたなびき「オフサイド」が宣告されようものなら、我々ジャパンサポーターは「残念!」と叫び天を仰ぐでしょう。畢竟、感動はルールの厳守に担保されていると言わざるを得ないと思います。

こう考えるとき、あるゲームのプレーヤーやゲームの観衆とはそのゲームのルールを尊重する者に他ならないとさえ言える。ルールを尊重しゲームを享受しようという意志、加えて、自分はそのようなルールを尊重する人々の共同体の一員であるという意識が、ゲーム参加者のアイデンティティーとプライドを構成すると考えるのです。而して、ジャパンの一員、この社会の一員、すなわち、天壌無窮皇孫統べる豊葦原之瑞穂国の伝統と歴史を継承する存在たる日本国民の一員としての意識、<政治的神話=イデオロギー>もまたこのようなゲームとルールの理解に基礎づけられているのだと思います【2010年10月4日-追補:尚、ゲームとルールと<伝統>が交錯する事情に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです】。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59836133.html

畢竟、ほとんどのルールの内容には必然性はなく、よって、その成立の事情と根拠がいかに怪しかろうと現行憲法も実定憲法たり得る。そして、そのような現行憲法を憲法典としてその内部の一斑に含む<憲法>の体系、すなわち、憲法典と憲法の概念、憲法の事物の本性、および、憲法の慣習という、①社会学的または論理的に確認または演繹可能な、すなわち、この社会の中で(自分達の勝手な願望ではなく)間主観性を確認可能な、かつ、②国の最高法規として(法の妥当性と実効性の両面で)法的効力を帯びる<憲法>の体系を編み上げている諸ルールに従うことこそが、(近代の国民国家のイデオロギーが成立して以降の)日本国民のプライドでありアイデンティティーの基盤でないはずがない。

而して、再度記しますが、そのような<憲法>の核心は、天壌無窮皇孫統べる豊葦原之瑞穂国のイデオロギーであり<政治的神話>に他ならない。ならば、憲法典に一定程度従いつつもそのような<憲法>を蚕食する、戦後民主主義のイデオロギーは、国民が遵法すべきルールとは無縁である【2010年10月4日-追補:ならば、そのような蚕食の所業を繰り返す民主党政権は<憲法>から見て、すなわち、これまた実定道徳に起因する政治的と道徳的な責任を負わなければならない】。と、そう私は考えています。

いずれにせよ、あと4日で18歳になるこの投書子は、国家と国民のあり方まで射的に入れ得る雄大な思想を、実に、平明かつ明晰に表現されたのではないか。そう私は思い感動しました。

うるうる。



おおた3





(2010年10月4日:yahoo版にアップロード)

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