「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)

扇


仙谷由人官房長官が尖閣諸島問題を巡り「日本も中国も偏狭で極端なナショナリズムを刺激しないことを政府の担当者として心すべきだ」(2010年9月21日)と述べた由。確かに、支那国内での反日デモやこの1ヵ月足らずの間に日本国内で高まった支那脅威論に(10月1日・FNN&産経新聞合同世論調査で71%が「支那は脅威」と回答)、日支両政府が引きずられることを危惧した発言としては、蓋し、評論家の発言としては満更不適当とは言えない、鴨。しかし、私は政府高官の発言としては仙谷氏のこの「偏狭なるナショナリズム批判」は妥当性ではない。と、考えています。




「偏狭なるナショナリズム」なるものの忌避は、しかし、日本ではあたかも当然のことのように報じられている節がある。けれども、「偏狭なるナショナリズム」なるものの意味自体はそう明確ではないようにも思われる。本稿は、この「偏狭なるナショナリズム」という言葉を導きの糸にして国家と帝国とナショナリズムが交錯する構図を一瞥するものです。

ナショナリズムへの嫌悪や軽蔑には、国家の死滅を予想したマルクス主義の影響からいまだに脱しきれていない「団塊の世代」を最終ランナーとして、他方、国家を必要悪と看做すフランス流の「立憲主義」の影響を受けたリベラル派を先頭ランナーとして、蓋し、大きくは二つの潮流が日本の社会に跋扈しているのではないでしょうか。先ず、これらの反ナショナリズムを俎上に載せることから「偏狭なるナショナリズム」なるものの考察を始めたいと思います。


nationalpeople.jpg



◆反ナショナリズムの陥穽と誤謬

二つの潮流をなすと思しき「反ナショナリズム」や「嫌ナショナリズム」の認識は、しかし、例えば、マルクス自身が、資本主義社会から社会主義社会への複線的な移行の可能性を容認したとされる(すなわち、その国家社会の文化的背景の違いによって社会主義への進路は複数あり得ることを示唆したとも言える)『ザスーリチへの手紙』(1881年)を傍証に挙げるまでもなく、「国家=国家権力」への彼等のかなり特殊な認識でもって「国家=文化共同体としての国家社会」に対する否定的価値判断を下すものであり、論理的には成立しない議論でしょう。

なにより、近代の「主権国家=国民国家」の成立以降、国民意識としてのナショナリズムは国家社会を統合するイデオロギーの中枢、すなわち、<政治的神話>の核心に他ならず、よって、ナショナリズムの忌避は国家社会の秩序を否定することを意味する。而して、現下のグローバル化の昂進著しい<皇帝なき帝国>の時代において、個々の人間実存の生活と生存とアイデンティティーをグローバル化の波濤から守護する「主権国家=国民国家」の機能が死活的に重要になっている現在、「国家との闘争ならぬ、国家からの逃走」を夢想する彼等のナショナリズム批判の心性はそのリアリティーをも喪失していると言うべきでしょう。

畢竟、ナショナリズムへの日本特有の嫌悪感や軽蔑は、「各主権国家が、外に対してはその国益をマキシマムにすることを意図しつつ、内においては社会統合のイデオロギーをメンテナンスしつつ国民の一体感を演出することを怠らないという世界の現実」を看過する、①先進国の、②都会に住む、③ホワイトカラーの、④現実逃避の戯言に他ならない。と、そう私は考えています。


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◆ナショナリズムの歴史的特殊性

その二大潮流とも、日本でのみ見られる反ナショナリズムは「論理的-歴史的」に成立しない。けれども、他方、ナショナリズムは、あくまでも、極めて近代の歴史的に特殊な社会思想にすぎないことも事実なのです。すなわち、ナショナリズムは人間実存にとって自然的のものでも純粋に自生的なものでもないということ。

畢竟、ウェストファリア条約の締結(1648年)からナポレオン覇権下のその解体(1806年)に至る緩やかな「自然死」の過程でも、神聖ローマ帝国の権威を基盤とする<中世的帝国>の世界秩序が18世紀半ばまでの欧米社会では寧ろ自然で親しいものだったのです。その解体に至るまで、神聖ローマ帝国は(「それは「神聖」でも「ローマ的」でも最早「帝国の実を備えたもの」でもない」と揶揄されていたにかかわらず、そのあまり誇らしいとは言えない現実とは別に)、「神聖ローマ帝国の形成する<宇宙>の時空間内に諸民族や諸王家が存在している」という人々が抱く「世界観=宇宙観」が憑依する依代であり、その「世界観=宇宙観」は効力を持続していたということです。

尚、蛇足になりますが、支那の中華主義や民族と人種を超えるイスラーム共同体の理念、あるいは、所謂「一国社会主義路線」に転換する以前の「世界革命路線」の社会主義もまた、ある意味、このような「帝国=宇宙」の世界観に分類されるの、鴨。   

而して、領土・国民・主権によって構成される、内においては最高の統治権を保持し、外に対しては対等独立な対外主権の主体である(よって、その国内においては全知全能であるがゆえに、ホッブス(1588年-1679年)の言葉を借りれば、「可死の神」でさえある)近代の「主権国家=国民国家」は、17世紀-18世紀、否、一部19世紀初葉でさえ欧米の人々にとっては得体の知れない<リバイアサン>であり、ある種、不気味な存在だった。

畢竟、(イ)(現在でもフランスでは実定憲法の一部を構成する)所謂『人権宣言』(1789年)がその16条で「権利の保障が確保されず、権力の分立が定められていないすべての社会は、憲法をもたない」として「権力の分立」の制度による国家の権力濫用の抑制をはかり、

他方、(ロ)英国では13世紀の『マグナ・カルタ』(1215年)の捉え返しやコモンローの普遍性の捏造によって、例えば、エドワード・コークの有名な言葉、「王権も法の下にある。法の技法は法律家でないとわからないがゆえに王の判断が法律家の判断に優先することはない」「国王といえども神と法の下にある」(1606年)という「法の支配」の原理により国家の専断的な権力行使を制限する、所謂「マグナ・カルタの神話」が17世紀に成立したこと。

そして、(ハ)拡大解釈を可能な限り封じるべく連邦政府の権限を制限的に列挙している『アメリカ合衆国憲法』(1787年)を紐解くならば、独立当時のアメリカの人々が国家の権力行使をいかにして制御するかに苦心していたかを誰しも容易に追体験できるのではないでしょうか。

尚、「法の支配」と保守主義に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。   

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139182915.html


愛国1


ことほど左様に、17世紀-18世紀、新参者の「主権国家=国民国家」に対して当時の欧米の人々が警戒感と猜疑心を抱いていたことは自明でしょう。ならば、その「主権国家=国民国家」と表裏一体のナショナリズムもまた人類史の中では比較的新しい社会思想であり、そう自然な事柄ではなかった。このことも明らかではないかと思います。而して、例えば、次のような「愛国心=ナショナリズム」に対する素朴な理解は、社会理論的には正しい一点を突いているが、しかし、社会思想史的には間違いと言うべきなのです。

日本では、「愛国心=偏狭なるナショナリズム」と言う論調がメディアにおいて優勢のようです。しかし、誰だって自分の故郷には愛着を持つもの。誰だって子供時代の懐かしい風景に強い郷愁と愛情を持つでしょう。「愛国心」とは、正に、そういうことの積み重ねの上にあるものであって、それは真っ当な感情であって、誰もが心の中に持っている当たり前の心情ではないでしょうか、と。    


蓋し、郷里への慕情やコミュニティーの紐帯。それらの「積み重ね」の上に、現在の日本で「愛国心=ナショナリズム」が表象可能であり涵養可能ということは正しいでしょう。けれども、「主権国家=国民国家」という契機を欠いていたとすれば、たとえ、その「積み重ね」が数千年に及ぼうとも「愛国心=ナショナリズム」は成立しなかった。繰り返しになりますが、17世紀-18世紀の欧米社会でのみ、かつ、神聖ローマ帝国の政治的な解体にともなう<中世的帝国>の神通力の消失という歴史的背景を得て初めて「愛国心=ナショナリズム」は成立したのですから。

畢竟、上に記した素朴な「愛国心=ナショナリズム」理解は、ナショナリズムをメンテナンスする社会の構造や仕組みと、片や、ナショナリズムの源泉(すなわち、ナショナリズムの成立原因とナショナリズムの規範の効力根拠)を混同するものだ。と、そう言えるのではないでしょうか。而して、ナショナリズムが自然な事柄ではないことと、しかし、他方、それが「主権国家=国民国家」成立以降の国家社会では必然性に近い規範的拘束力を帯びていること、この一見相矛盾する経緯を理解するについては、次のゲルナーの認識が参考になると思います。

民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。それは、偶発的なものでは決してないのであって、それ故簡単には拒めないであろう。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】    



愛国2


反ナショナリズム批判を嚆矢としてナショナリズム成立の事情を一瞥しました。而して、このようなナショナリズム理解を前提に、以下、慌しく、「偏狭なるナショナリズム」なるものの検討に移ります。蓋し、その思索は、保守主義からする国家と帝国の概念の吟味検討を横糸に、他方、国民国家の成立事情と揺らぎの現状の省察を縦糸に進められますが、その思索の切り口は「左翼の愛国心の可能性」という論点です。

尚、本稿では保守主義について詳しく触れる余裕がありません。よって、保守主義とマルクス主義を巡る私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11145893374.html


・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11139986000.html


<続く>



愛国33





(2010年10月8日:yahoo版にアップロード)

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