再論☆国を愛することは恋愛ではなく人としての嗜みである

あきちゃんだにょん


「偏狭なるナショナリズム」に民主党政権は組みしない。このような発言が恥ずかしげもなく官房長官という政権中枢からなされる等、愛国心を巡って、戦後のこの社会は不健康で重苦しい雰囲気に覆われている。私にはそう感じられます。蓋し、現下の日本では、

ナショナリズムや愛国心については、それらに価値を置く国民が存在するのは、民主主義社会でもあり表現の自由も保障されていることだから仕方がないとして、しかし、それらがマスコミ報道で好意的・積極的に取り上げられるのは、まして、政治において、就中、外交や教育といった国の根幹にかかわる領域でナショナリズムや愛国心が政策を誘導するが如きは政治の大衆迎合主義であり許されるべきではなかろう


といった主張が<社会の公式見解>とされている節がなきにしも非ず、鴨。而して、現在の日本社会を「不健康」と評するのは、この<公式見解>が国民世論とはかけ離れたものと考えるからです。蓋し、(皇室と靖国神社に寄せられる国民の畏敬尊崇の誠は言うに及ばず)例えば、各種スポーツの国際大会で日本選手に送られる声援、あるいは、教育現場における「国旗・国歌を巡る適切な取り扱いを促す行政の指導措置に対する数多の憲法訴訟に粛々と下される合憲判決、その判決に寄せられる国民世論の圧倒的な支持を想起すれば、世論と<公式見解>の乖離分裂云々は独り私の悲観的妄想とは誰も言えないの、出羽。

本稿は、愛国心に関して戦後民主主義を信奉する側のある典型的な主張を俎上に載せるもの。すなわち、「愛されるに値する国になれば愛国心など国民の間で自ら澎湃と湧き上がってくる。ならば、愛国心を強制するなど愚の骨張である」という主張の粗雑さを咎めるもの。而して、本稿の理路の根拠、逆に言えば、左翼・リベラル派の愛国心批判の根拠自体に対する検討については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html

・戦後責任論の崩壊とナショナリズム批判の失速
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59898544.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html


◆権力的言説としての「愛国心=不必要悪」論

ミシェル・フーコーが喝破した如く、一般的に専門家の言説は(素人を沈黙せしめる権威を帯びるという点で)「権力的」です。ならば、なにがしかの専門的な知見の帰結としてそれが語られてきたとあれば、憲法や社会思想に不案内な大多数の国民にとって上に述べた如き<公式見解>が世論を沈黙せしめる権力性を纏ったとしてもそう不可思議ではないの、鴨。

いずれにせよ、世論から乖離した<公式見解>が半世紀以上も流通している構図は民主主義社会においてそう健全な姿ではないのではないか。否、蓋し、愛国心を巡る現況は、陰鬱で不健全・不健康のみならず、不条理かつ正義に反する事態である。なぜならば、この<公式見解>自体には、現在の社会思想の水準から俯瞰するとき、実は、そう確固たる根拠が備わっているとは到底言えないからです。以下、敷衍します。


国家を「期間限定の必要悪」と看做し、「国家の死滅」を喧伝していた社会主義の方が、最早、歴史の遺物になってしまった現在、親亀こけたら小亀もこけたよろしく戦後民主主義の論者(すなわち、左翼と隠れ左翼を主力とするリベラル派、つまり、民主党政権の幹部や朝日新聞)が唱えてきた、愛国心批判、畢竟、謂わば「愛国心=許容値内では禁止不要な、単なる、不必要な悪」と看做す認識もまた、「歴史的-論理的」にその根拠を喪失したのだと思います。

◎愛国心=許容値内に限り禁止不要の不必要な悪?


ならば、「国家=必然的に死滅すべき期間限定の必要悪」という、その<専門家的認識>の基盤が破綻している状況で、専門的には破綻している論拠を掲げる専門家の<権力>が社会全体を引き続き覆っているという図は「不健康・不健全」を通り越して、正に、「不条理かつ非道」と評するしかない。蓋し、それは、カフカの文学やダリの絵画の(あるいは、諸星大二郎さんのマンガの)好個のモティーフになる類のものである。と、そう私は考えています。


◆「愛国心=不必要悪」論の亜種-自由恋愛型愛国心論

冒頭にも記した如く、戦後民主主義側のある論者は愛国心と国家の関係についてこう述べています。

民主主義の国では、主権者である国民が統治の仕組みを決め、選挙で選んだ代表を通じて国を治める。どういう国をつくりたいかはそれぞれ考えが違うだろうが、自由に意見をたたかわし、妥協が必要なときは妥協して、社会をつくり、国をつくっていくのである。みんなが参加してつくった民主的な社会や国だからこそ、そこに愛情が生まれる。国民一人ひとりが尊重され、その意思が反映される国ならば、愛国心は自然に生まれ、育っていく。国を愛せ、と一方的に教えるだけで愛国心が育つはずがない。(中略)自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う。(中略)国の愛し方を一方的に決めつけるようでは、ゆがんだ愛国心になってしまう。(引用終了)


これは、教育基本法改正が現実味を始めた平成16年6月17日付け、ある意味、彼等が戦後最も真剣に「愛国心反対」を世論に訴えていた時期の朝日新聞社説「教育基本法――愛する国とはどんな国」からの引用です。而して、正に、これ一種の「自由恋愛型愛国心論」、より正確に言えば、「愛されるべき国家」と「愛される資格のない国家」に国家を二分した上での「個人主義至上主義の自由恋愛型愛国心論」の宣言でしょう。すなわち、

「国家が民主主義的であり、国民の意に沿う政治が行われているのなら、国家への愛は自ずと芽生える。ただし、国の愛し方は人それぞれ。ならば、愛国心の強制、まして、国の愛し方まで画一的に強制するなど寧ろ愛国心を歪めるものだ」、と。


而して、もし、この社説に対する理解が満更我田引水の類ではないとすれば、蓋し、この社説の主張は、世界は自分を中心に廻っていると考える「子供」、あるいは、支那人や韓国人の心性と親近的と言えると思います。


◆愛国心は自然なものでも必然でもない

文化人類学的観点からは、国家は本質的に人間存在にとって非本質的存在です。畢竟、在日韓国人がメンタリティー的には100%日本人であるのと同様、100%日本人のDNAの子供でもアメリカでアメリカ市民の子として育てばそのメンタリティーは100%アメリカン。

また、法学的な観点からは、①ケルゼンが喝破した如く、国家とは法的な権利義務がそこにタグ付けされるための「目印-帰属点」にすぎず、他方、②ゲルナーの言うとおり、近代の「主権国家=国民国家」が、歴史的に特殊な存在であり、日本を含むすべての国で、近代の「国民国家=民族国家」のかなりのパーツが人為的な造作物であることは自明。よって、③国民から見れば国家は便宜的なものでありベネディクトが規定した如く「想像の共同体」にすぎないのでしょう。

国家は人間存在にとって自然なものではない。ならば、それを愛することが自然に涵養されるなど期待すべきもないことではないでしょうか。それは、自分の意志と無関係に与えられた運命であり、帰属点であり、歴史的に特殊な人為的の造作物であり、想像の共同体なのですから。蓋し、このような疎遠で不自然な対象を愛することなど(換言すれば、自分よりも大事にすることなど)、どう見てもかなり異常な事柄なのだと思います。畢竟、愛国心とは総て「ゆがんだ愛国心」でしかないのです。

ならば、朝日新聞の社説子が言うように、ある条件が与えられれば「愛国心は自然に生まれる」などと語ることは詐欺師の手管か狂人の戯言、あるいは、その両方でしょう。白黒はっきり言えば、本質的に異常な事態である愛国心を自由恋愛とパラレルに捉えることで、その一部を正当化する議論はその初手から<北斗の拳>である。と、社会思想的にはそう評するしかないのです。


◆愛国心の尊重は自然であり必然である

蓋し、愛国心自体は自然でも必然でもないが、愛国心の尊重は自然であり必然でもある。蓋し、愛国心は恋愛の情ではなく大人同士の嗜みである、と。ならば、国家に対して、個々の国民がどんな感情を抱いているかということと、社会的に愛国心が要求されることは位相を異にしている事態なのです。敷衍します。

アリストテーレースが喝破したごとく、「人間は社会的な動物」でしょう。蓋し、国家は、人間が人間として自分に与えられた生態学的社会構造(自然を媒介として人と人とが取り結ぶ社会的諸関係の総体)の中で社会生活を営む上で不可避な存在。すなわち、動物行動学の用語を借りれば、国家は人類の「拡張された表現形」に他ならず、そのような不可欠でありながらも本質的に疎遠な国家と人間が共生するために編み出された文化的な知恵こそ<愛国心>に他ならない。と、そう私は考えています。

簡単な話。要は、木枯し紋次郎は上州新田郡三日月村出身の無宿人ですが、無国籍者として生きてく生活力があり、加えて、並み居る主権国家やテロリスト集団から自力で自分の身を守ることのできるゴルゴ13のような特殊な人間でもない限り、人間は、「愛国心を持つことは尊いことだ」という価値観と行動様式を後天的に学習しなければ生きても行けず生きて行く資格もない存在ということです。

換言すれば、国家がいかに疎遠で不自然な存在であれ、愛国心の価値は毫も否定されることはない、ということ。ならば、()「()「()「()「国を愛すること」は大切なことだ」とされていること」がこの社会の正統な意識であること」、あるいは、()「()「この国には()「()「国の愛し方」に関する緩やかではあるが伝統に裏打ちされた一定の型」が存在していること」が社会を構成する人々の間で共通の了解になっていること」という愛国心を尊重する態度を巡る重層的命題と、例えば、「自分の国をどう愛するかは、人によってそれぞれ違う」という命題は何ら矛盾しない。後者は単に愛国心を巡る重層的な言説の第一階層()に関するある日本人(多分?)の主観にすぎないのですから。

而して、この社会では、誰であれ愛国心を批判する自由を持つ。けれども、誰であれ、諸外国と同様に、この国もまた愛国心が尊重されている社会であることは知らなければならない。ならば、その国籍で差別されることなく、日本で学ぶすべての子供達は、この社会の愛国心を巡るルールとマナーを厳しく躾けられ強制されるべきである。そう考えれば、愛国心の涵養は子供達がこの社会でよりスムースにノイズ少なく生きていくことを支援するための不可欠な<カリキュラム>と言うべきでしょう。畢竟、冗談でも揶揄でもなく、蓋し、愛国心の涵養は、その26条で社会権的基本権としての教育権を保障している現行の日本国憲法の要請でさえある。と、そう私は考えています。








(2010年10月14日:yahoo版にアップロード)

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