「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(上)




社会主義・共産主義に対する資本主義・自由主義の最終的勝利(1989年-1991年)が歴史的に確定して早20年。現在では、自身を「社会主義者・共産主義者」と規定する論者はほとんど相手にする必要のないほどの少数派であり、今更「左翼」の定義を云々する実益はないようにも思われます。しかし、現下我が国の民主党政権を見るまでもなく、世には「リベラルの羊の皮を被った左翼の狼」が少なくない。そして、保守派の中には「左翼-リベラル」に対する不勉強からか、例えば、民主党政権や支那政府に対する些か見当違いや筋違いと思える左翼批判もまま見られる(而して、それは「左翼的でないものに対する左翼批判」であり、敵に的確なダメージを与えられていない節も少なくない)。畢竟、これが屋上屋を架す趣もなきにしも非ずではあるけれど、本稿をアップロードしようと考えた所以です。

最初に本稿の結論的な「左翼」認識を明示しておきます。

計画経済と生産手段の国有化を通して国家社会の経済的・文化的な発展(要は、生産力の増大と、社会主義社会・共産主義社会の生産関係およびそれらの生産関係と整合的な価値観や社会規範をより多くの人々が内面化すること)を成し遂げた上で、国家権力の死滅を志向する社会主義の不可能なことが歴史的に証明された現在。

国家権力と資本主義を否定する心性と理論を「左翼」、国家の個人に対する文化的介入を忌避しながらも(資本主義下の)資源と所得の再配分領域では国家権力の積極的な活動を要求する心性と理論を「リベラル」と名づける場合、日本の民主党政権や70年安保後の全共闘解体によってエコロジー運動や市民運動に流れ込んだ「リベラルの羊の皮を被った左翼の狼」の立場は、国家権力ならぬ国家自体を否定しながら国家権力の機能の拡大を目指す社会思想と定義できる。

要は、それは性善説的と天動説的な予定調和の国際政治認識と社会秩序認識に基づき、他方、同じく天動説的に国家権力の機能に万能感を覚える、国家や民族、家族や地域コミュニティーの価値を否定する強権支配の社会思想。それ正に、(国家権力にこれ以上ないほどどっぷりと依存しながらも、その国家権力を生み出す国家社会に自生する伝統的な価値を軽視無視、軽蔑中傷してやまない)鼓腹撃壌的の強権支配の社会思想である。と、そう私は考えています。   


本稿の目的は2010年の現在、保守派にとって「左翼-リベラル」を批判するために必要な「左翼」という言葉の意味内容の提示であり、他方、「左翼」という言葉を巡って観察される保守派の議論の無知と非論理性、すなわち、貧困と脆弱さの指摘です。而して、本稿は左翼の思想内容に踏み込むものではなく、あくまでも、保守派の思考と議論、行動と運動をより生産的にするためのものです(よって、「左翼」の中核を占めるマルクスの思想と保守主義に対する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください)。

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59891781.html



◆保守派の「左翼」理解の貧困

この社会では現在次のような大雑把な思い込みがまかり通っている。蓋し、この程度の認識に基づく「左翼-リベラル」批判などは「左翼-リベラル」にはおそらく何の痛痒も与えない。再度記しますが、このような小さいけれどくっきりとした危惧が本稿執筆の動機なのです。所謂「夫婦別姓法案」に関してある「保守派氏」慷慨して曰く、

夫婦別姓法案が招来するであろう「家族解体」が、我々保守派の単なる危惧かといえば、勿論そうではない。この法案の目的は、明確に「家族解体の完成」に他ならない。マルクス・レーニン主義において、「家族解体」は必須事項であり、目下これを実行せんと躍起になっているのは、生粋の極左ばかりである。


而して、「マルクス・レーニン主義において、「家族解体」は必須事項」という点に関するこの論者の根拠は、例えば、『共産党宣言』(1848年)の次の記述ということ。

家族の廃止! もっとも急進的な人々でさえも、共産主義者のこの恥ずべき意図に対しては激怒する。現代の家族、すなわち、ブルジョア的な家族は、何に基礎を置いているか? 資本に、私的営利にそれは基礎を置いている。完全に発達した家族は、ブルジョア階級にだけしか存在しない。しかも、そういうブルジョア階級の家族制度を補うものとして、家族喪失と公娼制度がプロレタリアに強要されている。

ブルジョアの家族は、この補完物がなくなるとともに必然的に消滅することになる。そしてその両者は資本の消滅とともに消滅することになる。・・・

ブルジョアにとっては、その妻は単なる【子供の再】生産用具に見える。だから、生産用具は共同に利用されるべきであると聞くと、彼等は当然、共有の運命が同様に婦人を見舞うであろうとしか考えることができない。ここで問題にしているのは、単なる生産用具としての婦人の地位の廃止だ、ということには、ブルジョアは思いもおよばない。

(KABU訳,但し、岩波文庫版 pp.63-64参照)    


貴族の令嬢を妻に向かえ、その正妻から生まれた娘達には極めてブルジョア的な教育を施しながらも、女中との間に生まれた息子はプロレタリア的に処遇して無教養なまま放置したマルクスの事跡を想起するまでもなく、ここでマルクスが述べているのは、プロレタリアートが家族を持てない状況に置かれていること(独身であるか、売春婦とその顧客であるかでしかない状況)の糾弾であり、その状況の上に咲く徒花としての「ブルジョアの家族」が社会主義への移行にともない(「ブルジョアの家族」を成立させてきた、「資本の自己増殖運動」をエンジンとした経済構造や社会的諸条件の消滅とともに)消滅するという予測以上でも以下でもありません。

実際、エンゲルス『家族、私有財産、及び国家の起源』(1884年)を除けば、マルクス=エンゲルスの著作には「家族」どころか「宗教」または「民族」の本性に焦点を当てた理論的考究はない。而して、欧米において、1975年~1995年に亘って続いた、マルクス主義フェミニズムとリベラルフェミニズムの論争において、「マルクスの思想や「マルクス-レーニン主義」からフェミニズムが演繹、補強・正当化できるのか」という点は主要な論点でしたが、マルクス主義側から(「売春は人類最古の職業」であることでも自明なように、最も、理論化し易い「再生産拠点」としてさえも)家族の規定や家族の解体が、マルクス主義を根拠にして立論可能という主張はつい成功しなかったと言えると思います。

畢竟、この経緯は、例えば、日本にマルクス主義フェミニズムを輸入した第1世代とも言うべき、上野千鶴子氏の主著『家父長制と資本制』(1990年)の冒頭第1章で彼女自身が書いているように、マルクス主義フェミニズムからのマルクスと「マルクス-レーニン主義」に対する不満は、それらが労働力の再生産システムとしての家族を「市場」の外にあるものとして分析と批判の対象から外したこと(逆に言えば、社会主義社会・共産主義社会になれば自動的に家族の問題は解消すると楽観視していたこと)にあったことからも明らかであろうと思います。

ならば、例えば、「宗教は民衆の阿片である!」というマルクス『ヘーゲル法哲学批判序説』(1844年, 岩波文庫版 p.72)という名文句を引き合いに出して、というか、この1センテンスだけを根拠にして(宗教嫌いだったエンゲルスや、宗教や信仰には無関心、「敵対する宗教勢力=ギリシア正教」は弾圧し、「味方の宗教勢力=イスラーム」とは手を携えたレーニンとは異なり、スターリン同様に宗教や信仰に対しては微妙な立場に生涯終始したマルクスから)左翼は宗教を否定しているという結論を導き出すのと同程度に、上に引用した如き、「左翼→夫婦別姓法案推進論」認識は、社会学的にはその傾向性は認められるものの社会思想的には「1対1」的に成立するものではない。畢竟、このような筋違いの批判は現実に夫婦別姓法案を推進しているリベラル勢力にとっては(再々の言い草になりますが)痛くも痒くもない批判、保守派の無知の表明にすぎない。尚、夫婦別姓法案に関する私の批判については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・完全攻略夫婦別姓論要綱-マルクス主義フェミニズムの構造と射程
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59250899.html


◆過剰なる「真正」の二文字

保守派の仲間内での議論の場面と、現下の政治課題を巡って「左翼-リベラル」を批判する場面とでは、左翼の用語や思想に対して要求される知識の量と精度は自ずと異なるでしょう。後者の場合には、保守派ではなく、「黒猫でも白猫でも鼠を取る猫が良い猫」だと考える人々。つまり、「左翼-リベラル」でもそれが「鼠を取ること=社会の安寧と繁栄」を実現できるのなら「良い猫=良い政権」と考える広範な「国民-有権者」が想定される聴衆の多数派なのでしょうから。

而して、前項で述べた保守派の「左翼」理解の水準の低さに関連して、ある意味、その裏面として常々気になる現象があります。それは、ネット上には「真正保守主義」とか「真正護憲論」とか、やたらと「真正」の二文字を自称する論者が散見されること。大体、世間では「自分は正直者です」という人物に限って詐欺師なのは常識だから(笑)。実際、例えば、刑法学で言うところの「真正不作為犯」「不真正不作為犯」の場合には、

・真正不作為犯
不解散罪(刑法107条)、不退去罪(130条)、保護責任者遺棄罪(218条後段)等々、刑罰法規が不作為の実行行為(構成要件に該当する行為)を予定している犯罪

・不真正不作為犯
刑罰法規が作為の実行行為(構成要件に該当する行為)を予定している犯罪を不作為で実現する場合


と、刑法理論が与える定義によって間主観的に「真正」「不真正」の意味が定まるのですが、自身や仲間内で「真正保守主義」などと100万回雄叫びを上げたところで、他者にとってその「真正」の二文字は単なる余計な「形容句」にすぎない。

もっとも、しかし、英米流の分析哲学、例えば、J.A.オースティンの先駆的分析が明らかにした如く、言語行為は「事実の記述」のみならず(遺言や契約の申込と承諾の如き)「意思の表明」や「意思の確定」、あるいは、「威嚇」「哀願」「感情の吐露」等々様々な機能を帯び得る。ならば、「真正保守主義」を自称する論者が個人的に「真正」の二文字を愛用することは自由ではある。ただ、ここで一つ理解されるべきは

「真正」の二文字を用いたからといって、彼や彼女の主張が保守主義に親和性のあることを保証するわけではなく、また、彼等が「何が保守主義であるか」を間主観的に定め得る立場にあることを保証しているわけでもない 


ということです。実際、往々にしてこれらのブログでは、他者を「左翼」と認定すればそれで「相手に対する批判が完了した」と考えている節もまま見られる。而して、前項で述べたような「左翼」理解の貧困とあいまってこのような「真正保守主義」なるものを標榜する論者は、保守主義の対極にあるはずの教条の色彩を漸次濃くしているのではないか。と、そう私は危惧しています。


left2.jpg


◆資本主義と社会主義の収斂

2010年現在の「左翼」の定義(事物定義)に進みたいと思います(★)。ポイントは「時代の変化-グローバル化の昂進」にともない左翼も、よって、「左翼」の語義も変貌を遂げているということ。

日本では世界金融危機を契機に、「2008年の世界金融危機によって、規制撤廃と市場万能論を基盤にした新自由主義の誤謬が明らかになった」と説く論者が跋扈しています。而して、このような主張は「交通事故の悲惨を鑑みれば自動車文明の誤謬は明らかだ」という主張と大差のない論理の飛躍であろうと思います。

蓋し、「独占」を排除するための独占禁止法体系や雇用者と被雇用者の力関係を対等にして健全で持続可能な労使関係を具現するための労働法体系が、資本主義を維持する上でも肝要な制度である如く、「投機的な金融取引」や「実需とあまりにも乖離した金融商品」を規制することは、資本主義、就中、自由で公平な競争に価値を置く新自由主義と矛盾しないどころか、むしろ(労働法的な働く者の権利の具現に貢献する「健全な労働組合」が新自由主義の戦友でさえあるように、そのような規制は)新自由主義的制度の不可欠の一斑と言うべきだと思います。

独占禁止法や労働法や金融規制によって資本主義は社会主義化するのではなく、益々、力強く新自由主義化への歩を進める。そう私は理解しています。蓋し、「市場万能論に立った新自由主義は弱肉強食の経済を志向するものであり、国内外で格差を拡大する」等のオドロオドロしい主張は、完全に間違いというわけではなく現象の一部面を正しく指摘している認識ではある。しかし、新自由主義的経済の帰結たる格差や貧困の解消は経済の社会主義化によってではなく、セフティーネットの整備に基づく敗者復活可能な「新自由主義的-保守主義的」な社会の具現によって(自己責任の原則が貫徹する社会における個人と民間の旺盛な活力の発露の中で)解決されるしかないと私は考えます。    

畢竟、「過度な競争や強欲な活動」を制限する仕組みによって資本主義社会を「より人間と自然に優しいし経済活動が機能する舞台」にできるとの考えは、意識改革とその制度改革によって(現状の技術水準に基づく生産力と資本主義的生産関係を維持したまま)社会主義を実現できるとする「空想的社会主義」に他ならない。蓋し、マルクス『資本論』(1867年-1894年)が喝破した如く、

「主要な生産が商品生産」として行なわれ、「人と人の関係が商品と商品の関係に物象化」する、而して、「商品の価値が(個々の商品の個性差に起因する)その使用価値とは別に(諸商品の使用価値の表示がその使用価値である「貨幣商品」によって均一な基準で測定される)交換価値の形態」として立ち現われる資本主義社会は、「商品生産と交換に基づく利潤獲得プロセス」の再生産というその運動法則自体を止揚しない限り社会主義や共産主義が支配する社会に移行することはあり得ない。


そして、マルクス主義経済学が予想したようには、この資本主義の運動法則が当分終焉を迎えることがないことも確実でしょうから。しかし、マルクス主義経済学と社会主義体制の崩壊は左翼思想がすべて反古になったことを意味しない。逆に言えば、(労働価値説と史的唯物論を世界中のほぼすべての左翼が「法則」ではなく「仮説=思考枠組み」に過ぎないことを認めている現在)フリードマン、ハイエク、シュンペーター、セン等々、文字通り左右の多様な方向からその理論と政策への批判は喧しいものの、国家権力の財政・金融への容喙を推奨するケインズ経済政策のプラットフォームの上に世界のほぼ全ての国は乗っているのであり、世界中の国の政府は(純粋な資本主義経済下の政府ではないという意味では)すべて社会主義政権と言っても間違いではないのです。蓋し、社会主義体制が崩壊した現下の世界は、資本主義と社会主義の収斂化の第二段階にあると見るべきなの、鴨。


収斂化。社会主義諸国の市場経済導入と(所有権の不可侵・契約自由の原則・過失責任の原則の三原則の修正をともなう)資本主義諸国の社会福祉政策導入の同時進行という、社会主義崩壊に先んじて始まったこの傾向は現在もその歩みを止めてはいません。畢竟、収斂化と現下のグローバル化の昂進は地続きなのです。

蓋し、()第二次世界大戦後、信仰においては最も保守的で内政においては最もリベラルと言われたカーター大統領が信仰に関する寛容政策を継続せざるを得ず、また、1978年の年頭教書演説では「政府ができることは限られているから、国民は政府に期待しすぎることなく自分の生活は自分で守らなければならない」と保守主義者よろしくアメリカ国民に訴えたこと、逆に、()「左翼-リベラル」が跋扈する日本のマスメディアでは、「吉良上野介」「梶原景時」の如き保守の敵役と取られる向きもあったジョンソン大統領(民主党)とニクソン大統領(共和党)の政権下で、(すなわち、1963年-1974年の期間、現在次々とそれに対する違憲判決が連邦最高裁判所で出されている)所謂「アファーマティブアクション」(人種・性別、性的嗜好性等々に基づく現在に至る差別状態の解消には、単に今後の差別の禁止だけでなく、現在のマイナスの状態に対する「埋め合わせが措置=逆差別!」が必要とする暴論)が粛々と実行されたことを鑑みても、グローバル化の胎動を背景にして社会主義と資本主義の収斂化にともない、先進資本主義国の国内においては「左翼-リベラル」と保守主義の収斂化もまた進んでいたと言えるのだと思います。

★註:定義論-定義することの定義

英米流の分析哲学は、語を定義するという言語行為を、大きくは、「辞書的定義」「規約定義」「事物定義=語の経験分析」の三者に区別します。要は、その語彙が世間ではこのような意味で使用されてきたという情報提供、私はこの語彙をこれこれの意味で使用するという宣言、そして、過去の経験に基づきその語彙を巡り人々が連想する事態や事物の範囲や属性、構造や機能に関する陳述の三者を「語の定義」と考えるということ。

而して、例えば、「左翼」や「保守主義」という言葉に関して、ある論者が自己の語義を明示するのならば、その規約定義の内容を他者からとやかく言われる筋合いはなく、どの言葉をどんな意味で使用しようも原則自由であろうと思います。しかし、彼や彼女がその議論や意思伝達をよりノイズの少ないものに、より生産的にしたいと欲する場合、彼や彼女は自己の「左翼」の定義を一般的に使用されている「語義≒辞書的定義」に合わせるか、または、「左翼」という言葉で通常イメージされる諸々の事象に共通な本質的要素(その要素を欠けば最早そのsomethingは「左翼的事柄」ではなくなると感じられる要素)を可能な限りその定義に盛り込むか、あるいは、その両方を選択すべきでしょう。更には、彼や彼女がより専門的な議論を遂行したいと考えるならば、その定義は専門家コミュニティテーで慣習的に成立している語義と親和性のあるもでなければ彼や彼女の意図は十全には達せられないと思います。尚、「左翼」の辞書的定義に関しては下記拙稿をご参照ください。    


・保守主義とは何か(1)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html



◆「左翼」の変貌とマルクス主義の価値の不変

社会主義の崩壊以降、否、実は、(A1)バベルク(1851年~1914年)による「マルクスの価値論=循環論法」批判以来、左翼教条の核心たる「剰余価値学説」(商品の価値の源泉は労働であり、その労働を使用価値とする「労働力商品≒労働者」を資本側は合法的に搾取して資本を増殖させているという主張)は単なる「思考の枠組み=作業仮説」の類にすぎず「法則」などではないことは明らかです。他方、(A2)カール・ポパー『歴史主義の貧困』(1957年)により、左翼教条のもう一つの主柱「唯物史観」も「法則」などではなく単なる歴史を見る一つのパラダイムにすぎないことが論定されている。

加えて、(B1)左翼にとって、資本主義終焉の必然性を説く(ほとんど唯一の)論拠であった、資本の有機的構成比の高度化の予想(要は、市場での競争を見据えた場合、資本の再生産過程で機械等々に振り向けられる資本比率が漸次高まり、「労働力商品の購買=賃金」に振り向けられる比率は逓減していく。よって、早晩、人口のより多くの部分がプロレタリアートへ転落し、かつ、プロレタリアート全体の窮乏化が惹起するという予想)は歴史的に見事に「外れ!」たこと。他方、(B2)ヘクシャー・オリーンの定理(「自由貿易が貫徹されれば、生産要素価格(=賃金率・地代・利子率)は世界中でいずれ同一になる」という証明)は些か机上の空論であるにせよ数学的には正しい。つまり、所謂「従属理論」(先進国の経済的繁栄は後進国の遅れた、そして、先進国によって歪に偏らされた産業構造の犠牲の上に維持されているという主張)には経済史的な仮説を超える意味はなく、先進資本主義国の帝国主義への移行の必然性を説いたレーニンの『帝国主義論-資本主義の最高の段階としての帝国主義』(1917年)の近未来予測は完全に間違っている。

畢竟、現在の左翼は(それが、仲間内で「籠城する城内の宴」に興じるマニアックな輩ではなくて、先進国において政権を狙う野心を抱くほどのものならば)これら二つの教条と二つの神託とは無縁な、「理論的には無害化-政治的には塹壕戦の準備万端した」ものと捉えるべきなのです。

ことほど左様に、現下の左翼は、(少なくとも、仲間内以外に対しては)「疎外-物象化-物神性」「国家の死滅」「帝国主義-民族解放路線」「「上部構造-下部構造」の階層的な社会と歴史の認識」「政治的国家と市民社会の分裂」等々の用語を思考枠組みとしてしか使用していない。ならば、計画経済と生産手段の国有化を放棄して塹壕に籠もる左翼に対して、これらの点に着目してする単純なハイエク流の「左翼=全体主義」「左翼=設計主義的合理主義」批判もそう大して有効ではないの、鴨。   


他方、モンテスキュー『ペルシア人の手紙』(1721年)の先駆例を見るまでもなく「所変われば品変わる」式の思考は鬼面人を驚かせるような際物ではなく中庸を得たもの、蓋し、物質的な諸条件に規定されるものとしての社会という、マルクス=エンゲルスが『経済哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』(1843年―1845年, 1845年-1846年)で定式化した思考枠組みは、左右を問わず現在の社会認識の共有財産と言ってよいでしょう。

而して、マルクスの、労働価値説とは無関係に成立可能な価値形態論(ある商品の使用価値の量で測られる別の商品の使用価値としての交換価値)や「労働と生産の社会性の反映としての資本=社会的労働による資本の生産」というアイデア、更には、「資本の無計画な無限増殖プロセス」という資本主義の規定性から演繹される資本主義の問題点の指摘等々もまた現在では左右を問わず使用されている人類の知的共有財産であろうと思います。

要は、「マルクス侮り難し」であり、かつ、左翼は昔の左翼ならずということ。ならば、左翼に対する伝統的な批判を(例えば、「左翼=全体主義」批判を)現在の左翼に浴びせ掛けても所謂「蛙の顔に小便」なのかもしれません。


<続く>





(2010年10月26日:yahoo版にアップロード)

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