中川八洋「国民主権」批判論の検討




保守派の中には、中川八洋氏の議論に影響を受けてなのか、「国民主権」、否、「主権」概念を批判・否定する向きがあるようです。蓋し、白黒はっきり言えば、「国民がそれを希望するなら、それがどんな内容であれ、ある一時期の国民の感情や気分が国家の意志とされかねない」国民主権論、そして、その前提としての「国家の政治的な意志を最終的に決めることができる権威や実力」としての主権概念に抗して、例えば、天皇制・家族制・私有財産制等々の実定法によっても、まして一時期の国民の感情や気分、偶さかの政治情勢や政治の動向によって左右されるべきではない<法>の内容を認識・認容する保守派の心性には中川「主権→国民主権」批判論は心地よく響くの、鴨。

しかし、世の中にそんな美味しい話は落ちていない。本稿は、中川「主権→国民主権」批判論の説く<現世利益論>を批判して、地道な思索と行動を保守派に呼びかけるものです。尚、中川八洋さんの主張の意義とそれが陥っている陥穽については下記拙稿をご参照ください。

・書評☆中川八洋「正統の憲法 バークの哲学」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60034240.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60002055.html


まだ終戦直後といってよい1947年から1949年にかけて、旧憲法から現行の日本国憲法への移行のプロセスで「主権」の所在に変化があったのかどうかを巡り、所謂「尾高-宮澤」論争が繰り広げられました。ともにハンス・ケルゼンの学風を受け継ぐ、東京大学の誇るこの法哲学と憲法の両大家はこう論じた。

尾高朝雄
主権は「ノモス=道理」にあるのであり、「与えられた具体的な条件の下でできるだけ多くの人々の福祉をできるだけ公平に実現しなければならないという筋道」たるノモスには、新旧憲法間での変更はなく、その所在の変化も認められない。

宮澤俊義
主権とは「国政のあり方を最終的に決める力」であり、主権の所在を巡る議論は、その最終的に決める力を持つ具体的人間は誰なのかという問題である。ならば、仮にノモスの主権性を承認するとしても、ではその時々のノモスの具体的な内容を決めるのは誰なのかという問題はノモス主権論ではなんら解消せず、ノモス主権論は主権の所在に関する回答になっていない。   


詳細は別にして、この論争は誰が見ても「主権」という言葉の意味をどう捉えるかという論争のスタート地点で釦の掛け違いがあったと言わざるを得ない。而して、1947年-1949年という論争の時代背景を鑑みれば「新旧の両憲法で主権の所在に変化があったのか」という問いは、すなわち、「国政のあり方を最終的に決める力を持つ具体的人間は誰なのか」という問いに他ならず、よって、この「尾高-宮澤」論争は、論争内在的というよりは論争を取り仕切る<ゲームのルール>を鑑みて論争外在的な観点からはより直截にその問いに答えた宮澤先生の勝とする判定が下されています。実際、尾高先生の高弟、井上茂・碧海純一・矢崎光圀の三先生に聞いてみても「完敗だった」との由。

国民主権、あるいは、その前提としての主権を巡る中川八洋さんの理路を俎上に載せようとする本稿の冒頭でこの「尾高-宮澤」論争を紹介したのは、「主権」という言葉の多義性についてメンションしたかったからですが、些か本稿の結論を先取りして言えば、ある実定憲法典に「国民主権」や「主権」という言葉が記されていないとしても、法概念論や法学方法論という法哲学的な視点、就中、その憲法をルール外在的な視点から観察する場合には、「主権」や「国民主権」をその憲法典に見出すことは論理的になんら間違いではないということを最初に明記しておきたかったからです(★)。

★註:憲法
憲法とは法典としての()「憲法典」に限定されるのではなく、()憲法の概念、()憲法の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()とも、「歴史的-論理的」な認識であり最終的には国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が確定するもので、それらは単に個人がその願望を吐露したものではない。そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。   



すなわち、例えば、フランス憲法3条1項「国の主権は人民に属し、人民はその代表者を通して主権を行使するか、または、国民投票によって主権を行使する」、ドイツ基本法20条2項「すべての国家権力は、国民より発する。国家権力は、国民により、選挙および投票によって、ならびに立法、執行権および司法の特別の機関を通じて行使される」、ベルギー憲法33条「すべての権力は国民に由来する」「権力は憲法に定められた方法により行使される」、スペイン憲法1条2項「国家の主権は、スペイン国民に存し、すべての国家権力は国民に由来する」等々とは違い、確かに、米国憲法には「主権-国民主権」の文言を欠いている。けれども、中川八洋『正統の憲法 バークの哲学』(中央叢書・2001年12月)の次のような主張は法哲学的な考察においては適切ではない、否、率直に言えば、誤謬なのです。

「日本では米国憲法に関する虚偽と神話の方が定説である。たとえば、宮沢俊義が編纂した『世界憲法集』では、米国憲法は「人民主権を前提としている」と書かれている。だが、米国にはそもそも「人民主権」はおろか「国民主権」という政治概念も存在しない。存在しない「人民主権」が米国憲法の基軸である、という説は荒唐無稽であろう」(p.13)    



国民主権と天皇制は矛盾するか。結論から言えば、それらは矛盾するものではない。「国民主権」原理の意味内容を更に押さえておくべく、中川「国民主権」批判論の検討に進む前に、もう一つこの点を確認しておきましょう。

民法上の法人、もっと具体的に言えば商法上の株式会社は、法人格を持つがゆえに、会社名義で契約したり訴訟を提起したりすることができる。而して、会社という観念的で抽象的な存在が法律行為や訴訟行為の「主体」になれ、その行為の結果たる「法律効果」は法人である会社に帰属することになる。この場合、「主体」たるその会社のことを「権利帰属主体」と呼ぶのですけれども、法人である会社には手も足もないし口も頭もない。というか、法的ルールの眼鏡を掛けない限り誰もそれを見ることも触ることもできません。

畢竟、ならば、会社に法人格を認める以上、その裏面として、「実際に具体的な誰の行為が会社の行為であるのか」を定めなければならない。つまり、(民法・商法上の「代理人」たる一般の社員の話はここでは置いておくとして)会社を代表して契約書に捺印したり訴状の提起人として署名したりする代表取締役、会社の重要な意志決定をする株主総会や取締役会等の制度が定められなければならないのです。

ちなみに、観念的・抽象的な存在である「会社」に代わってその権利を行使する具体的存在を「機関=権利行使主体」と呼ぶのですが、再度記せば、法人制度と機関制度は一つのコインの両面である。と、そう言えると思います。   

蓋し、法学的に見る場合、国家も上で説明した会社と同様な法人であり、権限を行使し、また、権利が帰属するのは国家としても、その権限と権利を行使する機関が観念的・抽象的な国家とは別に定められなければならないのです。而して、内閣総理大臣と内閣、国会、裁判所という機関、権利行使主体が憲法典によって定められる。畢竟、天皇もそのような国家の権利行使主体の一つであり、主権者たる国民がそのような天皇の法的な地位を容認・希望している以上、それは国民主権の帰結でこそあれ、国民主権と天皇制の間にはなんら矛盾は存在しないのです。





◆中川「国民主権」批判論の検討

以下、『正統の憲法 バークの哲学』を紐解きながら中川さんの「主権→国民主権」批判論を具体的に検討して行きます。


憲法を「最高権力者の意志」と見なす反・憲法原理の革命思想において【フランスの】1791年憲法は制定されたのである。この反・憲法原理の革命思想の一つに、シェイエスの「憲法を制定する権力」論があり、フランスを革命に決起させた『第三階級とは何か』(1789年1月に出版)がそれである。・・・では何が「憲法を制定する権力」なのか。シェイエスは、憲法を制定する権力は「国民」だ、と論じる。「立法機関を設立する憲法はあらゆる組織に先んじて国民意志によって創設される」(『第三階級とは何か』岩波文庫, p.85)。

「国民の意志」で憲法をつくるというのは、ルソーの「立法者のみが憲法をつくる」以上の、妄想であろう。どんな成文憲法であっても、米国憲法の原案執筆がマディソンであったごとく、一定以上の智力のあるものによって起草される。「国民の意志」という抽象的なものが起草することはありえない。仮に「国民の意志」とは「国民の意志」に基づく正当な手続を経た人物もしくは機関という意味だとしても、この「人物」も「機関」も、「国民の意志」を把握することは雲をつかむようで不可能である。また国民の99・9%以上は国家の政体についてすら知見はゼロである。国民に流動的な感情や欲望はあっても、「国民の意志」などはどこにも存在しない。(pp.137-138)   


その定義さえ明確であれば、「憲法」という言葉で誰が何を意味させようともそれは自由でしょう。よって、中川さんが、彼の理解する限りでの「バークを起原とする英米の保守主義」がインカーネートする最高法規のみを憲法と呼び、それ以外の、就中、フランスやソ連の憲法を「反・憲法原理」に貫かれたものと理解することにはなんら問題はないと思います。問題は、近代に特殊な「国民国家=民族国家」の最高法規を<憲法>と呼ぶ一般の用語法を中川さんの用語法は否定することもできないということ。

而して、法内在的と法外在的に見た場合(HLAハートの言う「内的視点」と「外的視点」を重層的に併用した場合)、中川さんが「それは憲法ではない!」と1万回叫ぼうとも、フランスの1791年憲法にもスターリン憲法にも、例えば、基本的人権の普遍性、例えば、社会権的基本権という、憲法に内在する価値と特徴的な制度が認識できるのであり、また、それらがその後の多くの国の憲法典や憲法解釈の原理として伝播継承されていることも否定できないのです。

このことは、例えば、(その規約締結国を国内法的にも拘束するに至る)国際人権規約の前文の人権が「人間の固有の尊厳に由来する」という文言、そして、国際人権規約のA規約が社会権的基本権を定めたものであることを想起すれば誰しも否定できないことではないでしょうか。簡単に言えば(憲法と国際法の効力の優位性論議は別にして)英国もアメリカも同規約を締結・批准している以上、その法価値正当化の理路と制度を受け入れているわけであり、憲法より下位のレベルとはいえこの規約がかかわる法域では、人権の普遍性を前提にその国内法は制定・解釈されることになるのですから。

而して、「国民主権」の実体たる「国民の意志」とは、国家権力と国家統合の正当性根拠としての、観念的・抽象的に想定された「全国民の意志」としての所謂「ナシオン主権」であり、中川さんの主張は全く的外れのものである。誰も「国民の意志」で物理的や具体的な人格の意志など想定していないから。と、そう言えると思います。



「国民がたとえどんな意志をもっても、・・・その意志は常に至上至高の法である」(岩波文庫, p.88)・・・

これでは、「国民の意志」というものが憲法の上位にあり、恣意的に憲法を改廃する権力をもつことになる。また、国民は憲法を遵守する義務を負わないことになる。つまり、憲法は単なるある瞬間瞬間の「国民の意志」と名付けられた、祈りでも呪いでもよく、感情でも欲望でもよいことになる。われわれはそのようなものを憲法とは呼ばない。(p.139)    


蓋し、「われわれはそのようなものを憲法とは呼ばない」と中川さんが言うのは勝手であるけれど、世間と世界では、憲法の正当性の根拠としての国民の意志を基盤として成立した国家の最高法規も広く「憲法」と呼んでいる。要は、これは言葉の規約定義の問題にすぎないでしょう。尚、「定義」という言葉には概略3個の意味があります。すなわち、

英米流の分析哲学は、語を定義するという言語行為を、大きくは、「辞書的定義」「規約定義」「事物定義=語の経験分析」の三者に区別するということ。要は、その語彙が世間ではこのような意味で使用されてきたという情報提供、私はこの語彙をこれこれの意味で使用するという宣言、そして、過去の経験に基づきその語彙を巡り人々が連想する事態や事物の範囲や属性、構造や機能に関する陳述の三者を「語の定義」と考えるのです。閑話休題。   

上に引用した主張には三つの誤謬が含まれていると思います。先ず、これもまた言葉の定義の問題になるのですが、蓋し、国民主権のイデオロギーを受け入れる国法秩序においては、憲法の正当性の根拠たる(繰り返しますが、これは物理的なものや具体的なものではなく、観念的かつ抽象的な理念にすぎないのですが)国民の意志に従った憲法の改廃を「恣意的」とは呼ばないということです。

次に、その憲法の改廃の動機や動因が具体的な「国民=有権者」の「祈りや呪い、あるいは、感情や欲望」であるにせよ、その結果として改正・制定される憲法は法規範としての形式と事物の本性を備えた間主観的で論理的な<作品>であるということ。而して、新しい憲法が憲法としての事物の本性を満たしている限り、その改廃の動機や動因が「国民=有権者」の情念や欲望であると社会学的に観察されたとしても、その事実は、新憲法の規範的な妥当性と実効性に毫も影響を与えることはないのです。

第三に、憲法秩序に従う場面と憲法を改廃する場面は位相を異にしている。ならば、憲法を改廃する、憲法の正当性の根拠がナシオン主権としての観念的に思念された「全国民の意志」であるからといって、実定的な憲法が効力を有する間、まして、具体的な個々の国民が「憲法を遵守する義務を負わない」などということを「国民主権」から演繹することはできないのです。


このシェイエスのデマゴギーをそのまま無批判に継承したのが、カール・シュミットの『憲法論』(1928年)である。・・・

「憲法制定権力は何らかの法的権原に基づいているではない。・・・その妥当根拠はもっぱらその(=人民の)政治的実存にある」(『憲法論』みすず書房, pp.117-118)。

君主であれ人民であれ、いずれも憲法制定権力になることはできない。憲法制定の正統性は、その国で歴史的に発展してきた自生的制度(order)と自生的な法(law)に従っているか否かで定まる・・・。(p.140)   


「君主であれ人民であれ、いずれも憲法制定権力になることはできない」「憲法制定の正統性は、その国で歴史的に発展してきた自生的制度と自生的な法に従っているか否かで定まる」というのは、これまた「憲法制定権力」「憲法制定の正統性」という用語の定義の問題にすぎない。それだけの問題ではないかと思います。

ちなみに、カール・シュミットの憲法制定権力論は、

(イ)「憲法改正の限界論」を法論理的に基礎づけただけでなく、事実の世界と規範の世界の結節点たる憲法の事物の本性をよく説明しているロジックであり、(ロ)20世紀初頭、(歴史法学派と近代自然法論者の両者が競い合い牽制し合いながらも、一応、主要な法域での法典化が済、要は、主要な社会的紛争の解決が法内在的な規範論理の形式で処理可能になった、所謂「概念法学」の全盛時代に)憲法学に社会学的な考究を導く呼び水になった先駆的業績。(ハ)更に言えば、それは「政治的実存」として、すなわち、民族の文化が憑依している具体的な個々の国民を(しかし、もちろん、より高い抽象度で観念される「国民」を)憲法制定権力の担い手と見ることで、君主が憲法制定権力として振る舞う場合と同様に、憲法制定権力としての国民による憲法の改廃の行為も自生的な民族性によって枠づけられるという主張です。   


最後の点は、例えば、カール・シュミットにおけ「民族性」を「普遍的な基本的人権」に転換した芦部信喜『憲法制定権力』(東京大学出版会・1983年)に道を開くものだったと言えると思います。


一般理論的にいえば、国民主権/人民主権とは、文明社会の文明性(法秩序)と自由にとって不可欠な「法による支配」を全否定して、「人による支配」へと政治をコペルニクス的に野蛮化することを図ったものである。・・・「君主主権」や「国民主権/人民主権」の君主や国民・人民が「人」であるように、そのいずれも“誰が政治を担うべきか”という間違った思想に基づいており、この点でもそれらは「<法の支配>による政治」を否定する。・・・

【フランス革命における】あれほどの財産没収とギロチン/溺死刑その他の大量殺人は、【「すべての主権の淵源は、本質的に国民にある」と記した】人権宣言第3条の成果である。(pp.143-144)   


一般的に言えば、この主張は、憲法の正当性の根拠が誰の意志に起因するかという問題と国家権力の恣意的な運用を単純に結びつけるものと言えるでしょう。しかし、国民主権の原理を採用したとしても、そこで制定・改正された憲法に沿った政治が行なわれる限り、恣意的な権力の行使の制約は可能である。実際、一般的にはこの経緯を「立憲主義」と呼ぶのであり、それが可能であるがゆえに立憲主義は19世紀と20世紀を通して世界中に広がったのではないでしょうか。

而して、フランス革命における凄まじい惨劇の原因を人権宣言の文言に求めるのは二重の間違いであろうと思います。すなわち、

(イ)憲法典ができればその内容が自動的に実現するものではないこと。そして、(ロ)フランス革命の惨劇は、憲法典を越える「国民国家=民族国家」の成立のダイナミックスに起因するものであること。   

前者において、人権の普遍性なるものもまた理念にすぎないことは当然なのですが、前者における中川「国民主権」批判論の陥穽は、中川さんの主張とは裏腹に、憲法万能論に近く、それは、左翼的な設計主義の亜種と言えるの、鴨。

後者に関しては、例えば、英国が「国民国家=民族国家」に脱皮するプロセスで行われたクロムウェルのアイルランドとスコットランドの蹂躙、あるいは、これも「国民国家=民族国家」成立の陣痛と言えるアメリカの独立戦争時の王党派への陰惨な迫害と、二度の世界大戦を遥かに超える60数万に及ぶ南北戦争の死者数(民間非戦闘員の犠牲者数を加えれば、3100万人の当時の人口の3%強!)を考えれば、それは残酷ではあるが歴史的な必然であったと言えなくもないのではないでしょうか。後者に関しては下記拙稿をご参照ください。

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


国民が主権者である自分から政府を通じて支配(統治)を受けるということは、国民は主権者ではないということである。何人にも支配されない最高至高の権力をもつという意味が主権者だから、国民が主権者である国民の統治を受けることは論理的に成立しない。各国民が国王と庶民を兼ねることができないように、各国民が主権者と被主権者になることはできない。そうでないと考えるのは、重度の精神分裂症の妄想のみである。・・・

「立憲主義」とは「正しい憲法」が政府を支配していることをいうから、「間違った憲法」である「国民主権」に基づく憲法の下では「立憲主義」は成立できない。つまり、「立憲主義」と「国民主権」は両立できない。・・・

少なくとも、「国民主権/人民主権」は、ハイエクの冷静な表現によれば、「迷信」である。
「主権がどこにあるのかと問われるなら、どこにもないというのがその答えである。立憲政治は制限された政治であるので、もし主権が無制限の権力と定義されるなら、そこに主権の入り込む余地はありえない。無制限の究極的な権力が常に存在するに違いないという信念は、あらゆる法がある立法機関の計画的な決定から生まれる、という誤った信念に由来する迷信である」(『ハイエク全集』第10巻、春秋社、171頁および190頁)(pp.145-148)   


「支配」という社会学的概念を「主権」という法学的概念と併用している時点で中川さんの主張は成立しないのですが、いずれにせよ、個々の具体的な国民と観念的・抽象的に表象された理念としての国民とは位相を異にする概念でしょう。また、憲法制定権力が一旦憲法を制定した場面では(憲法制定権力の次の発動が行なわれるまでの間)憲法に従うことは国民主権の帰結でさえある。要は、国王が国民を兼ねることができるように、各国民がナシオン主権の主体たる理念としての国民として、後者においては主権者、前者においては被主権者になることはなんら問題ではないのです。

蓋し、事前に制定された憲法による国家権力の正当化とその裏面としての国家の権力行使を枠づけるアイデアを「立憲主義」と呼びます。すなわち、(就中、憲法改正の手続きが一般の法律の改廃手続よりもより高いハードルを認める「硬性憲法」の場合には)「立憲主義」は偶さかの民意によって国家権力の権力行使が左右されることを制約する、民主主義と鋭い緊張関係にある憲法原理なのです。   

而して、「立憲主義」を「「正しい憲法」が政府を支配していることをいう」と理解するのは中川さんの自由でしょうし、「正しい憲法」の内容を、(現在の保守主義とは些か異なる)バークに起原を持つ社会思想史上の保守主義と親しいものとするのも同様でしょう。しかし、通常の「国民主権」と「立憲主義」の意味内容からは、民主主義と重なり合う部分を持つ「国民主権」と「立憲主義」は鋭い緊張関係にあるものの両立不可能ではないのです。

中川さんは、国民主権を憲法原理に採用した場合、どのような内容の憲法規範も成立する可能性が惹起することの危険性を、憲法改正と制定を「歴史的・自生的に形成されてきた法」によって枠づけることで回避しようとするの、鴨。しかし、「歴史的・自生的に形成されてきた法」の内容を誰がどのような手続で<憲法>の内容とするかという、HLAハートの言う第二次ルール(ルールを承認・変更するルール)を巡る議論を欠落した主張は法の論理としては破綻している。畢竟、国民主権論の危険性は、究極的には憲法内在的なロジックではなく政治過程における政治の実存において回避するしかないのではないでしょうか。

ならば、要は、ハイエクの主張は、「主権」を「憲法の正当性根拠たる理念としての全国民の意志」と捉えるナシオン主権論にとっては、子供の遊戯に等しい議論でしかない。立憲政治とは「制限された政治」を無制限の権力たる国民が選択しただけのことなのですから。






(2010年11月10日:yahoo版にアップロード)

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