読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧-あるいは、マルクスの可能性の残余(四)

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<承前>

[F]労働価値説・労働力商品・剰余価値
エンゲルスは『空想より科学へ』(1878年-1883年)の中で「唯物史観」と「剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露」の二つを「社会主義を科学にした」マルクスの発見と書いていますが(岩波文庫, p.63)、本節[B]唯物史観で述べたように唯物史観が単なるイデオロギー的仮説にすぎないことは、最早、「歴史的-論理的」に明らか。そして、現在、エンゲルスが絶賛したもう一方の剰余価値論もまたその基盤たる労働価値説が否定されるとともに破綻、あるいは、(これまた百歩譲っても)イデオロギー的仮説にすぎないと考えられています。労働価値説もマルクスの独創ではなくアダム・スミス以来の古典派経済学の考え方なのですが、「マルクスは経済学を批判する過程で、古典派経済学という魚を労働価値説という<釣り針>ごと飲み込んだ」としばしば評されている所以です。

労働価値説とは、商品の価値の源泉は労働であり商品価格はその商品を生産するに際して投入された社会的に必要とされる平均の労働時間に比例するというもの。労働価値説曰く、アイスクリームと携帯電話サービスの如く極めて多様で相異なる使用価値を持つ商品が市場で貨幣と等価交換されている以上、それらの商品間には貨幣で換算可能な共通の価値の実体があるはず、而して、個々の商品に固有の性質を漸次剥ぎ取って行った場合に最後に残るものは「人間が労働によりその商品を生産した」という経緯だけである。よって、商品の価値の源泉は人間の労働である、と。尚、「社会的に必要とされる平均労働時間」とは、例えば、ベテランのお局様なら2時間で済ます伝票入力も、飲んだくれの不良新入社員君には12時間相当の仕事かもしれないが、それを社会の平均的な労働者が行なうと仮定して、この伝票入力の労働時間は4時間とするというような意味です。

労働価値説は「循環論法」にすぎない。所謂「転形問題論争」というオドロオドロしい名前がついているのですが、べーム・バヴェルク(1851年-1914年)は、単純労働と医師や弁護士等の専門的労働の双方に社会的に必要とされる平均労働時間と商品価値の関係(複雑労働と単純労働の「労働換算問題」と言います)を考究する中で、マルクスの労働価値説が「循環論法」である経緯を喝破しました。曰く、『資本論』の第1巻では商品の価格は投下労働量で定まるとされているのに、第3巻1篇乃至3篇では商品価格は商品の生産コストである「費用価格」に「平均利潤」を加えた「生産価格」で決まる、要は、商品の価格は市場の需給で決まると述べているのは矛盾である、と。

バヴェルクの指摘を敷衍します。マルクスの主張は、(i)商品の市場価格は(一時の投機や突発的事故により価格変動はありうるとしても、長期的には)商品生産に投下された労働の量(労働時間)で決まる、(ii)投下労働量の「社会的に必要とされる平均労働時間」への換算は(費用価格・平均利潤ともに)市場の需給、つまり、市場価格で決まるというもの、而して、これは循環論法にすぎない、と。

バヴェルクのこの指摘に対して、それは「価値論のない価格論」に堕したものだ(宇野弘蔵『資本論入門』(講談社学術文庫・1977年, p.210))等々左翼は苦しい反論を展開しましたが、後に、森嶋通夫氏によって「労働価値説は循環論法によっても否定されない」ことが証明されました。しかし、森嶋氏の証明は労働価値説が<科学的法則>などではなく単なるイデオロギー的仮説であることを駄目押し的に確認したものなのです(『マルクスの経済学』(1974年))。

マルクスは、「労働」と「労働力」を区別しています。要は、労働者が賃金と交換しているのは商品としての労働力であり、労働力という商品の使用価値が労働である。労働者は商品としての労働力が取引される労働力市場における労働力商品(労働力という商品の売り手)である、と(『資本論』第1巻3篇;『賃労働と資本』)。

重要なことは、すべて等価交換で行なわれるはずの資本主義市場での商品取引において(等価交換でないとすればそれは詐欺・強迫による不等価交換のはずです)、生産者が生産費用の合計よりも高い価格でその製品を販売できるのは「価値の増殖を使用価値とする商品」、すなわち、労働力がその生産過程に介在するからだというマルクスの認識です。つまり、「労働力の価値」と「労働力の使用価値である労働が創りだす価値」とは全く違った大きさである。なぜならば、商品としての労働力の価値は、一般の商品の価値と同様に、そのものの生産・再生産に社会的に必要とされる平均労働時間によって決定されるはずだから、と。要は、それは労働力の再生産コスト(≒自分と家族の衣食住+αの費用)で決まるからという理屈です。

而して、マルクスは、労働が増殖させた分の価値と労働力の購入に支払われた価値の差額を「剰余価値」と呼び、それは不払いの価値であると<暴露>したのです。この左翼の根幹的認識は、しかし、労働が価値増殖の唯一の源泉であるとする労働価値説が間違い、もしくは、単なるイデオロギー的仮説にすぎないことが判明した現在では説得力を完全に喪失しています。


[G]不変資本・可変資本・資本の有機的構成の高度化
マルクスは「資本」を、自己増殖する価値の主体(単位)、あるいは、貨幣と貨幣で購われた資源の総体、更には、「一つの社会的生産関係【所有と賃労働を巡る社会的諸関係】」(『賃労働と資本』岩波文庫, p.58;cf. 『資本論』第1巻2篇「貨幣の資本への転化」)と、重層的に「資本」を捉えています。

労働価値説を採用していたマルクスにとって価値を増殖するのは独り労働力の使用価値たる労働だけですから、新たな価値を生み出すか否かを基準に資本(=資源の総体としての資本)を「可変資本」と「不変資本」に分類することは自然な流れ。尚、前者が労働力であり後者が労働力以外の資本であることは言うまでもありません(『資本論』第1巻3篇6章「不変資本と可変資本」)。

これだけの話であれば可変資本・不変資本の区別は労働価値説のコロラリーとなる新規の学術用語の措定にすぎない。しかし、この不変資本・可変資本の区別は、『資本論』第1巻7篇23章「資本主義的蓄積の一般法則」および第3巻3篇「利潤率の傾向的低下の法則」において資本主義の将来予測につき重大な意味を帯びてきます。

自己増殖する価値の主体としての資本。より多くの「利潤≒剰余価値」獲得によって無限の価値増殖を運命づけられた個別資本は自由放任的な競争の中で勝ち残ろうとする。けれども、労働力を長時間働かせることでより多くの剰余価値を得ることには、生身の人間たる労働者の生理的限界や労働法の規制等々の桎梏がある。而して、結局、資本の生き残り戦略は生産性向上、つまり、高性能の機械を恒常的に導入し続けることに収斂するはずであり、当然、資源の総体としての資本に占める不変資本の比率は逓増していかざるを得ない。よって、資本主義の瓦解は必然である、と。こうマルクスは考えました。

資本主義の瓦解はなぜ必然なのか。資源の総体としての資本における不変資本と可変資本の比率を「資本の有機的構成比」、そして、資本に占める不変資本比率の増加を「資本の有機的構成の高度化」とマルクスは呼んでいますが、マルクスの場合、価値を生むものは可変資本(繰り返しますが、労働力のことですよ!)に限られる。よって、「資本の有機的構成の高度化」が資本主義経済の運動法則のコロラリーと考えたマルクスにとって、資本主義の発展の中で(自己増殖する価値の主体としての)資本が獲得できる利潤率・剰余価値率は逓減するはずであり、ならば、資本主義の没落は必然である、と。以下、敷衍します。<復習>です。次の段落の「資本」が資本のどの意味か確認しながら読んでみてください。

資本の運動が無政府状態に放置されている資本主義社会では資本の有機的構成の高度化により、(甲)資本の生産性が向上し漸次失業者が増える、(乙)可変資本の相対的縮小による資本の利潤率・剰余価値率の逓減により益々多くの資本が競争に敗れ失業者を含むプロレタリアートが増える、(丙)増大したプロレタリアートの存在により(雇用機会を超えるプロレタリアートを「産業予備軍」と言います)、これまた益々労働力商品市場は買い手市場になりプロレタリアートの窮乏化に拍車がかかり、(丁)プロレタリアートの増大と一層の窮乏化、他方、資本においては価値の自己増殖運動の鈍化が同時に進行する。而して、(戊)「恐慌→革命」の中で資本主義は必然的に没落する。


唯物史観と労働価値説をイデオロギー的仮説であると認めるポスト=モダン系の左翼からは「マルクスの曲解だ!」という常套的反論が聞こえてきそうですが、『資本論』第1巻7篇23章「資本主義的蓄積の一般法則」から(甲)~(戊)を読み取るのはそう不自然ではないと私は考えます。

けれども、資本主義は瓦解も没落もしなかった。資本の有機的構成の高度化は全体としては昂進しなかった。プロレタリアートの窮乏化も起こらなかった。これについては、ケインズ政策、すなわち、有効需要の管理と金本位制を廃止してする金融政策の導入、および、1990年代後半以降は工業化による大量生産の時代から知的財産中心のポスト工業化社会への資本主義社会の移行等々様々な理由が考えられるでしょう。

しかし、資本主義の経済発展におけるシュンペーターの言う意味での「イノベーション」の死活的重要性、ブランド商品に代表される所謂「独占的競争」現象の普及、そして、マルクスが考えた競争が敗者復活のない謂わば「チェス型」であったのに対して、現実の競争は「敗者復活や駒の再利用」がむしろ普通の「将棋型」であったこと。これらが預言破綻の本質的な原因ではないか。蓋し、名取洋之助『アメリカ1937 名取洋之助写真集』(講談社・1992年)に写っている、大恐慌に呻吟しているはずのアメリカ社会の逞しくも誇り高い人々の姿を見るたびに私はその感を深くする。以下、同書の後書ともいうべき青木冨貴子氏の薦述を引用しておきます。

「1937年に名取洋之助が撮影したアメリカを、半世紀余り後のいま目にしてみると、実に多くの発見があることに驚く。名取洋之助の撮ったアメリカは、同じ1930年代を撮影したウォーカー・エヴァンスのアメリカでもなければ、大恐慌に打ちひしがれたプア・ホワイトや労働者を撮ったドロシー・ラングのアメリカでもない。名取がニューヨークからロサンゼルスまで、車で大陸横断して撮ったこの何十枚かのアメリカには、(中略)大恐慌の次に始まる新しい時代への鼓動が脈打っているようでもある」(p.86)




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■保守主義から見たマルクスの可能性の残余

[一]マルクス社会理論の崩壊
「資本主義世界システム論」の創唱者、ウォーラーステイン(1930年-)は『史的システムとしての資本主義』(1983年)の中で、「宗教は民衆にとってのアヘンだと言ったのはカール・マルクスであるが、マルクス主義思想こそ知識人にとってのアヘンだと逆襲したのは、レイモン・アロンである。どちらの論法も、まことに洞察力に富んだものではあるのだが、洞察力があることとその主張が真理であるということは、必ずしも同じではない」(岩波現代選書, p.114;cf. 『ヘーゲル法哲学批判序説』岩波文庫, p.72)と述べています。

蓋し、マルクス主義経済学、あるいは、より広義にマルクスの社会理論は破綻した。前節で一瞥したように、(イ)マルクス主義経済学は労働価値説が破綻したこと、百歩譲ったとしてもそれが単なるイデオロギー的仮説でしかないことが判明するとともにその<科学性=普遍法則性>を喪失した。また、(ロ)資本の有機的構成の高度化の<法則>が「歴史的-論理的」に否定されることにより、その<法則>に依拠したマルクスの預言、すなわち、価値増殖を求める資本の無限の運動が無政府状態に放置されている資本主義社会没落の予測も水泡に帰した。

加えて、(ハ)普遍妥当なる自然法則の存在とその法則を人間が発見できるという予定調和的で、文字通り、素朴な「素朴実在論=模写説的認識論」が成り立たないこと、すなわち、マルクス主義の経済学・社会理論を含む近代科学のパラダイムが想定していた、普遍妥当な法則の存在とその法則を人間が漸次獲得可能であるという<科学観>が成立しないことを分析哲学(並びに、カール・ポパーの反証主義)が明らかにした20世紀の半ば以降、マルクスの唯物史観は錯覚もしくは詐術でしかなかったことが露呈したこと。これらによって、マルクス社会理論、就中、マルクス主義経済学は、最早、過去の遺物であると断言できるし、マルクス社会理論の虎の威を借りて存続してきたマルクス主義思想も多くの場合知識人層にとってのアヘンでしかなかったことが暴露された。

尚、(ハ)の唯物史観の擬似科学性に関しては前に紹介した、ポパー『歴史主義の貧困』(1957年)がマルクス主義批判の記念碑的著作です。蓋し、哲学の存在論において、「実体」を「他者の介在なしに存在するもの」と一応定義すれば、実体主義とはそのような「実体」が存在するという立場であり、他方、関係主義とはそのような「実体」なるものは存在せず存在するのは個々の個物とそれらの間の関係性のみであると考える立場のことですが、分析哲学と反証主義によって実体主義の成立不可能性は顕示されています。

ところが、『経済学・哲学草稿』までのマルクスは「実体主義的=近代思想的」な人間観と社会観を保持していたけれども、『ドイツ・イデオロギー』において、分業を槓桿とする社会関係の変遷として歴史の発展を理解するアイデアの獲得により「マルクスは、人間の“類的普遍本質性【=本来ありうべき人間のあり方】”なるものを「社会的諸関係の総体」ということで規定し返した」(廣松渉『今こそマルクスを読み返す』(講談社現代新書・1990年, p.35);cf. 廣松渉『マルクス主義の成立過程』(1968年), 『マルクス主義の地平』(1969年), 『唯物史観の原像』(1971年), 『マルクス主義の理路』(1974年))。よって、「後期」のマルクスは「関係主義的=現代思想的」の人間観と社会観の基盤の上に構築されているのだ。畢竟、「後期」のマルクスは、実体主義から関係主義への世界観の転換をなしたのであり、それは近代思想の地平の超克でもあった、と。まー、「言うだけならタダやで」ですが、こう主張するポスト=モダン系の左翼も存在します。

けれども、分析哲学・反証主義からの<科学>としての唯物史観否定の理路を反芻するならば、そのような主張はマルクスの片言隻句の恣意的な解釈に依拠した左翼内部でだけ通用するかもしれない我田引水的言説、あるいは、マルクスの贔屓の引き倒しに近い言説であろうと私は思います。実際、「人間の本質=社会的諸関係の総体」「人間の意識=歴史的な生産物」(各々、『フォイエルバッハに関するテーゼ』6番, 『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫, p.57))等々が「後期」のマルクスが関係主義に立ったことの証左になるとするならば、古代エジプト・古代ギリシア・古代支那以来すべての算術家・数学者もまた関係主義に分類されるだろう。而して、マルクス社会理論は崩壊した。マルクス主義はアヘンであった。そう言えると思います。


[二]マルクス社会思想の豊饒
マルクスの社会思想はマルクスの社会理論に還元され尽すことはない。これが本稿を貫く私の認識です。長尾龍一氏から「どのような馬鹿げたアイデアも世界の哲学史の中で語られなかったものはない」(笑)と昔聞いたことがありますが、蓋し、それがいかに荒唐無稽であったとしても、資本主義社会とそこに至る歴史に関して壮大で体系的な世界観を、かつ、(前節までの紹介でそのほんの一斑を紹介したのですが)堅固な(robust)哲学的論証と当時最高峰(best and brightest)の経済学的知見によって精緻に編み上げた(「巨大な大風呂敷を隅々まで綺麗に広げた!」)マルクスの社会思想は、グローバル化の昂進著しい現下の資本主義世界システムを与件としつつ伝統の恒常的な再構築を期す我々保守改革派が現前の社会と歴史を理解し、また、保守主義からのありうべき社会と人間実存のあり方を考究する上で参考にならないはずはい。そう私は考えるのです。

マルクス社会理論に還元されないマルクス社会思想とは何か。保守改革派はマルクス社会思想をどのように利用すればよいのか。マルクス社会思想をマルクス社会理論の共示義体系(a certain system of connotation)と理解するとき(つまり、両者のテクストは完全に同一であるがそのテクストに意味を読み込む解読枠組みが異なっていると理解するとき)、私は概略次のように考えています。

●マルクスの社会思想の可能性の残余
(α)マルクス社会理論の諸パーツの借用
(β)マルクス社会理論総体の脱構築
(γ)マルクス社会理論総体の反面教師としての使用


蓋し、疎外論・物象化論・物神性論、商品論-貨幣論、労働価値説-剰余価値論、不変資本・可変資本論-資本の有機的構成比論等々の経済と社会を説明するマルクス社会理論の個々のアイデア、あるいは、弁証法的唯物論-唯物史観、「市民社会-政治的国家」論、恐慌論-資本主義の無政府性認識-生態学的社会論、等々の世界と社会と歴史を把握する認識枠組みを(あくまでも、それらがイデオロギー的仮説にすぎないことを前提にした上で)適宜借用すること。これが(α)の諸パーツの借用の意味です。

他方、(β)のマルクス社会理論総体の脱構築とは、マルクスの社会理論総体を、例えば、『資本論』のテクストはそのままに、保守主義と資本主義の好ましい関係を創出するための参考資料として読み替えることも可能ではないかということ。ポスト=モダン系の左翼、具体的にはウォーラーステインやネグリ(1933年-)、そして、(ご本人的には<マルクスの真意>を語っただけだという認識だったと思いますが)廣松渉や宇野弘蔵が行なったような作業に保守改革派も保守主義の立場から参入するのもありじゃないかということです。もちろん、我々保守改革派にはその作業が<マルクスの真意>に迫るもであるなどと強弁する義理はない。而して、保守派からのこの作業の試みとしては佐藤優氏(1960年-)のアプローチなどはそれに近いかもしれません。

(γ)マルクス社会理論総体を反面教師として使用する可能性とは何か。蓋し、マルクス=レーニン主義の文献をひたすら読み込んだ、よって、只管打座の境地さえ感じさせる向坂逸郎先生の極めて完成度の高いマルクス理解はそれが現実の経済現象の説明としてはほぼその有効性を喪失したがゆえに、逆に、マルクスの社会思想を鏡として極めてラディカルで見通しのよい現代社会に対する<風景>を映し出してくれる。つまり、それは現実を理解する上での明確な<座標軸>を提供している。もしそう言えるならば、(γ)は我々保守改革派がマルクスの社会思想を活用するもう一つの可能性ではなかろうかということです。

私は保守主義から見たマルクスの可能性の残余を概略このように考えていますが、例えば、所謂「夜警国家→福祉国家」に対応した所謂「近代法→現代法」の転換、具体的には、契約自由の原則の修正・過失責任主義の修正・所有権の公共の福祉からの制約、あるいは、応報刑一元論から目的刑・応報刑を併用する二元論的刑罰論への移行を導いたものは、(α)(β)を踏まえた現代法思想だったと言えるのではないか。更に、大東亜戦争後の唯物史観に立った有象無象の歴史学の著作の中でもいまだに名著の誉れ高い、石母田正『中世的世界の形成』(1944年)、黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』(1975年)は、(α)(β)の実践だけではなく「マルクスを用いてマルクスを突き抜けた」作品として(γ)の実践でもあったのではなかったか。ならば、マルクス社会思想の可能性の残余は案外豊潤なものかもしれない。そう私は思っています。

日本共産党は4年半前の2004年9月、「党員の学習離れが進み、分厚い『資本論』を【邦訳書でさえ!】読み切った党員はほとんどいないのが現状」であることに鑑み「全党員に義務づけていた『資本論』等の「独習指定文献」制度を廃止」したそうです(朝日新聞・2004年9月23日夕刊)。而して、ならばこそ、左翼が『蟹工船』(1929年)ごときを通して共産主義的の雰囲気と戯れている隙に我々保守改革派がマルクスを自家薬籠中のものにする戦術的意味は小さくないのではないでしょうか。

畢竟、冷戦における自由主義陣営の勝利以降、保守主義の主敵は左翼から隠れ左翼たるリベラル派に確実に変わっており、また、保守主義とリベラル派の勝敗を分かつものは、現下のグローバル化(すなわち、無政府的な資本主義の価値自己増殖の暴力-自然と人間の関係を媒介にした人と人の間の生態学的社会関係の揺らぎ)に拮抗し得る安定した社会と国家のイメージをどちらがより具体的かつ体系的に提案できるかに懸かっている。この認識が満更荒唐無稽ではないとするならば、保守改革派こそマルクスを読むべきである。繰り返しになりますが、これが本稿に込めた私の基本的な問題関心です。


伝統の恒常的な再生に向けて、共に闘わん。





(2009年4月23日:yahoo版にアップロード)

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