風景が<伝統>に分節される構図-靖国神社は日本の<伝統>か?

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靖国神社の前身は1869年創建の東京招魂社、1879年に「靖国神社」と改称され現在に至っています。靖国神社に対しては、「靖国神社は陸海軍省が祭事を取り仕切った<国策神社>であり、それは日本古来の豊潤な神道的世界観とは異質な、国家統合のイデオロギーをヘーゲル流の<万世一系の国体>観念に求めた明治政府による近代的で人為的な国家神道の宣伝装置である」という主張をしばしば目にします。このような主張は妥当でしょうか。

靖国神社は日本の<伝統>ではないのか。本稿は「伝統とは何か」という切り口からこの問いに答えるものです。尚、「靖国神社≠伝統」論とは一応区別される、靖国神社に対する左翼・反日勢力からのイデオロギー的批判に対する私の反批判については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいと思います。

・高橋哲哉『靖国問題』を批判する(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/2499484.html

・高橋哲哉『国家と犠牲』を肴に<高橋哲学>の非論理性をクロッキーする
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/10702380.html





◆伝統とは何か?

ある言葉をどのような意味で使用するかは基本的には論者の自由でしょう。而して、これは「伝統」についても言えること。しかし、その論者が他者とのコミュニケーションを生産的にしたいと考えるならば、就中、学術的な議論に参画したいと希望するのならば、言葉の意味は、①一般的に流通している語義(辞書的定義)に沿ったものか、②その学術的議論が属する専門家コミュニティー内部で彫琢を施され蓄積されてきた語義(言葉の経験分析に適った語義)を踏まえるか、あるいは、③その言葉を明確に定義した上で(規約定義を明示した上で)使用されるべきだと思います。尚、言語使用のルールと言語の性質に関しては下記拙稿の前半部分をご参照いただければ嬉しいです。

・「プロ市民」考
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57630212.html


重要なことは、(イ)どのような言葉にも普遍的で単一の明確な意味は存在しない。しかし、(ロ)普遍妥当な語義を持たないはずの言葉が、かなりの程度まで共通の意味内容をコミュニケーションに参加する各自にイメージさせているという事実です。    


上に紹介した拙稿では、(イ)「言葉の指示対象の恣意性」、(ロ)「言葉の一定程度固有の指示対象保有性-言語コミュニケーション成立の可能性」が両立する経緯を「言語とその指示対象の関係」に着目して整理しています。本稿はその考察を受けて、言葉を巡る言語行為の構図に踏み込むものです。


ウィトゲンシュタインはその後期の言語ゲーム論において、言葉の意味は言葉を巡って行なわれる人々の言語行為の観察によって感得され体得されると考えました。この理路は、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書・2009年)の6章に手際よく紹介されていますので是非ご参照いただきたいのですが、

例えば、「1,2,3,4,・・・」の数列を見れば、誰しも「4」の次の第5項には「5」が来ると<分かる>ということ。ここで、実は、この数列が「1,2,3,4,1,2,3,4,・・・」であり第5項は「5」ではなく「1」なのだというのは数列の記述のルールに反する。同様に、人間は物心つくかつかない時から5個や10個、あるいは数百数千の机を観察して(それらは各々異なっているもののそれらには共通の性質が備わっていること、すなわち、「机」と呼ばれる個物の間に「家族的類似性」が見られることを感得して)<机>という概念を体得していくのだ、と。    

要は、<伝統>という概念も、「歌舞伎,文楽,能,流鏑馬,・・・,甲子園高校野球大会,女子高生のセラー服,カレーライス,寿司,・・・」という「伝統」と呼ばれる事物を巡る数多の言語行為を観察して、そこになんらかの家族的類似性が感得されることによって体得されるということです。蓋し、家族的類似性の感得に至る他者の言語行為の観察こそ、すべての言葉や行為に意味を付加してコミュニケーションを可能にするルールを紡ぎ出し、他方、そのようなルールと戯れる営みたる「言語ゲーム」の基盤である。


而して、『はじめての言語ゲーム』の8章に展開されている、否、同書の前編とも言うべき『言語ゲームと社会理論』(勁草書房・1985年)以来の橋爪さんの持論、(ある作為や不作為を行為者に命じるルールを1次ルールと呼び、誰がその1次ルールを制定し改正し解釈するのかを定めるルールを2次ルールと呼ぶ場合)「1次ルールと2次ルールの結合としてのハートの法概念論は言語ゲーム論の影響を受けて成立した」という仮説の是非は留保しておきますけれども、言語ゲームが紡ぎだす、あるいは、それによって言語ゲームが執り行われるルールが1次ルールと2次ルールの結合の形式を取っているという指摘は正しいと思います。    

尚、「法=主権者命令説」を批判した、保守主義の法哲学者としてのハートも(実は、コモンロー優位を否定して立法運動を推奨したベンサムの与力にして、「法=主権者命令説→制定法万能論→反保守主義」と看做さている英国分析法学の源流、ジョン・オースティンが、法と道徳とを峻別し、かつ、法は主権者の命令であるとしても道徳は主権者をも拘束すると考えていたという、英国分析法学研究の世界的権威である八木鉄男先生がつとに指摘されていた側面を鑑みるならば)、英国分析法学の伝統の中でこそその法概念論はより重層的かつ整合的に理解できるのではないでしょうか。いずれにせよ、保守主義を巡る私の基本的な考えについては下記拙稿をご参照ください。閑話休題。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59541275.html


畢竟、<伝統>を定める言語ゲームのルールもまた、何が伝統であるかを定める1次ルールと、誰がその<伝統>の線引きを行ない改正し解釈するのかを巡る2次ルールの結合である。而して、「伝統」の語義を定めるものは国語辞典、あるいは、伝統文化保護を巡る予算措置と規制措置を分掌する政府部局かもしれない。しかし、ルールの効力がルールの妥当性と実効性を不可欠の要素とする以上、ある社会の風景から<伝統>を切り取り、<伝統>の範囲を決めるものは、すなわち、風景から<伝統>を分節するものは、その<伝統>が息づく社会のメンバーの社会的意識でありその社会的意識を基盤とするメンバーの行為のあり様に他ならない。<伝統>が尊重されるべきものとして価値を帯び、そのメンバーに対する規範的拘束力を保持する限りそう言わざるを得ない。すなわち、日本の<伝統>を巡る言語ゲームの1次ルールの内容は、

日本人としての自己同一性を保持する、よって、自分を日本国という運命共同体のメンバーと意識している日本人が構成するこの社会の意識に定礎された、日本社会のメンバーの行為慣行   


と、一応はそう言えると思います。よって、1915年に始まった舶来球技の大会にすぎないにせよ甲子園の高校野球は<伝統>であり、それが日本古来の神道と些か毛色が異なっていようとも靖国神社もまた<伝統>である。では、<伝統>を巡る言語ゲームの2次ルールの内容は如何。この点を次項で検討します。







◆伝統の不可疑性と間主観性

<伝統>を定めるものは日本人の社会的意識である。けれども、誰がどのような権威や権限と手続でその社会的意識なるものを確定できるというのでしょうか。

フッサールが喝破した如く、ある色を私と他者が同じ色として認識しているかどうかは実証できません。ならば、「ある事象を私が<伝統>と考えているのと同じ意味で他者も<伝統>と考えていること」など到底論証のしようはないはずです。蛇足ながら、言語ゲーム論は、人々の行動の観察からそこで遂行されている言語ゲームを構成するルールを体得するという迂回戦術によってこの独我論のジレンマを解消したと言えるでしょう。

フッサールに従い結論から先に記せば、

蓋し、()<伝統>を巡る社会的意識の内容を定めるものは日本人としての私の意識そのもの(自我=純粋意識=<私>)以外のものではありえない。而して、()「生きられてある世界」(生活世界)の知見と矛盾しない範囲で(その「理解=解釈」が生活世界に根っ子を持っている限りで)他我構造から再構成された、間主観性を帯びる重層的な世界像の中に、()編み上げられた日本文化を巡る<物語>のパーツであると<私>が「理解=解釈」したものだけが<伝統>である。と、そう言えると思います。   


繰り返しますが、霊能力者でもない限り<私>は他者、まして、社会の意識など認識することはできません。ならば、社会的意識なるものもどこまでも<私>が「理解=解釈」した限りでの<社会的意識>にすぎない。加えて、<私>にとって、「生きられてある世界」、すなわち、そこに存在する事物や生起する事象の実在や意味が疑いないと感じられる(可疑性が最早成り立たない不可疑性の)世界に根っ子を持つ事柄でないのならばそれらは<伝統>としての規範的拘束力を<私>に対して持ち得ない。

更に、<私>と同様な認識者であり行為者である「他者=他の日本人」の存在もまた、<私>が<私>とアイソモティーフな存在であると<確信>する限りで成立する「理解=解釈」にすぎません。この(他者も<私>の生活世界内の存在という)他我構造は、しかし、他方では、「理解=解釈」された内容の間主観性を<私>に<確信>させるのです。

畢竟、「生きられてある世界」を基盤とする<私>にとって、<伝統>とは「生きられてある世界」を超えた<伝聞的世界&神話的世界>に向けて「生きられてある世界」の根っ子から童話のジャックが登った<豆の木>の如く伸び広がる<物語=フィクション>であり、また、その<物語>は多様な事物や出来事が織成す編み物として<私>に立ち現われる。この経緯はカール・ポパーが述べた、「世界Ⅲ=作品世界」の独自存在性と、「世界Ⅲ」が「世界Ⅱ=自我が形成する主観的世界」と相互に作用する世界論と相補的であろうと思います。

敷衍すれば、<伝統>とは「生きられてある世界」に根っ子を持つ<物語>であり、それは、間主観性を帯び、そして、<伝統>を定める1次ルールは<伝統>を巡る言語ゲームを通して<私>に了解される。蓋し、この認識が<伝統>を巡る言語ゲームの2次ルールの内容であろうと思います。   

蓋し、靖国神社が「生きられてある世界」に根っ子を持っていることは、英霊の御霊に感謝の誠を捧げる参拝者の列が切れることがないことによって自明であり、更に、その同じ事実は、他我構造の中で「靖国神社=日本の伝統」と多くの他の日本人も考えていると<私>に<確信>させる。而して、同じ他我構造の中でこれらの<確信>の内容は間主観性を帯びる「理解=解釈」となる。ならば、靖国神社は間違いなく日本の<伝統>である。否、それは<伝統=重層的な世界を覆う物語の編み物>の中でもこの社会の社会統合を担っている<政治的神話>の核心の一つでさえある。と、そう私は考えています。

<次記事の続編に続く>



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(2010年8月29日:yahoo版にアップロード)

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