<改訂版>サッカーとナショナリズム

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もう8年前のこと。2002年日韓ワールドカップの最中、サッカーとナショナリズムの関係について朝日新聞は社説でこう書きました。「サッカーはナショナリズムを刺激しがちな競技である半面、「世界共通の言語」であるとも言われる。 それぞれの国にはそれぞれのサッカーを文化としてはぐくむ土壌がある。W杯は、地域で磨かれた最高のサッカーを、ボールを媒介にして表現する場でもある」(2002年6月 1日社説)、と。

サッカーは世界の多様な文化圏間の相互理解を可能にする世界共通語ではあるが、他方、それは偏狭かつ排外的なナショナリズムを刺激する側面を持ち後者の側面には注意を要する、と。この社説を私はそう読み取った。世界中で延べ450億人が観戦するワールドカップのサッカーも、「ナショナリズムを刺激」するならそれは悪いものになる。サッカーが異文化間の相互理解に役立つ範囲を超えて、それが<おしゃべりの段階>を離れてナショナリズム勃興の契機になるようならばそれは困ったものだ、と。

これに対して私は、「ナショナリズム」なるものは人間が自覚的に拾ったり捨て去ることができるようなヤワナものでもないし、朝日新聞が考えるように端的に悪いものとも言えないと考えています。蓋し、ナショナリズムとは人間が生きて行く上で不可避かつ不可欠な自己同一性(アイデンティティー)の核心。そう私は考えるから。

朝日新聞の社説子は、国民意識や民族意識を殊更に意識しなくとも取りあえず社会生活がおくれるような<先進国の都市生活をしているホワイトカラーの目線>からしかナショナリズムを巡る諸現象が見えていないのかもしれません。しかし、世界人口の大部分は先進国の住人でも都市生活者でもないし、かつ、ホワイトカラーではない。

また、<先進国の都市生活をするホワイトカラー>のようなナショナリズムを疎遠なものと感じることが可能かもしれない人々、すなわち、国家やコミュニティーや家族から孤立しアトム化した<個人>なるものも、結局はナショナリズムを自己の自己同一性の核心に組み込まない限り、彼女/彼はその人生において個性を華開かせることも活気と隣人愛に溢れるコミュニティーの実現に貢献することも実は容易ではないと思うのです。このことは近年の家族の崩壊や地域の崩壊、就中、少年犯罪の凶悪化を想起する時、むしろ自明ではないでしょうか。

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◆ナショナリズムとサッカー
ワールドカップのアイルランド戦には多くのアイリッシュサポーターが世界中から駆けつける。それ正に、エスニシズムとナショナリズムの「饗宴-協演」。18世紀以降、夥しい数の移民がアイルランドから新大陸に渡り、例えば、多くのアイルランド系と呼ばれる人々がアメリカ合衆国に住んでいるのだから。また、日本で行われるマレーシアやインドネシアの試合にはスカーフを着用した在日イスラーム女性が国立競技場で熱い声援をおくる。他方、日本代表の試合に日の丸が打ち振られるのを批判する全国紙が我が国には存在しています。一体、ナショナリズムとは何でしょうか?

雁屋哲『マンガ 日本人と天皇』(いそっぷ社・2000年12月)には、「全日本大学サッカー選手権」で日の丸と君が代に敬意を表さない「大学サッカー部主将」が主人公として登場します。このマンガは韓国等の海外で翻訳されベストセラーになったとのことですが、「おいおい、日本以外のどこに国旗と国歌に敬意を表さない非常識なスポーツ選手がいるものか」と私は思います。オリンピックでさえ自国の人種差別政策に抗議し自国の国旗と国歌に敬意を表さなかった選手はメダルを剥奪されるのですから。

ナショナリズムを否定し矮小化する朝日新聞は頑なであると同時に非常識でもあるということ。他方、世界の共通語であるサッカーに触れ、世界に開かれた窓である<サッカーワールドカップ>を通して、日本が大東亜戦争後始めて世界に直接触れた2002年日韓ワールドカップが閉幕した翌日(平成14年7月1日)、朝日新聞は『天声人語』にこう書いています。

熱い6月が終わった。このワールドカップの6月は、後にどう回顧されるだろうか。幼い世代にとっては、ひょっとしたら「日の丸」と「君が代」の季節としてではないか。とりわけ日の丸である。日の丸がこれほど国中にあふれたのは先の大戦以来ではないだろうか。意味合いはずいぶん違うにせよ。(中略)これで国旗と国歌が定着した、などと重々しくいうような事態ではあるまい。若者たちは、恭しくというより、軽々と日の丸や君が代に相対していた。その軽さ、屈託のなさが印象的だった。翌日には他国の国旗を掲げてその国を応援したりするのだから。(引用終り)


私はこの『天声人語』に言うにいわれぬ不愉快さを覚えた。ナショナリズムに否定的な論旨にではなくその曖昧な主張に対してです。天声人語子は確信犯的に論旨曖昧な文章を書いたのではないか、と。蓋し、この天声人語の底には日本人がナショナリズムに目覚めることへの恐怖があり、その恐怖感ゆえに天声人語子はナショナリズム的な現象を矮小化し相対化しようとしたのではないか。而して、ナショナリズムの復活の恐怖とは、ナショナリズムを<悪>と断定してきたこれまでの朝日新聞の主張の根拠が必ずしも確固としたものではなかったことが露呈することに対する恐怖ではなかったのか、と。

もし、私のこの想像が満更間違いではないとすれば、朝日新聞のこの主張こそ両義性(多義性)を持つテクストの典型例ではないでしょうか。すなわち、この天声人語子は、ワールドカップを回想しつつ、実は、一刻も早く日本国民にワールドカップのことを忘れさせたかったのではないか。私は天声人語の「熱く、短い6月だった」の一文に著者のそのような本音を読み取るのです。

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◆ナショナリズムを善悪の二項対立で理解する滑稽
朝日新聞の天声人語子がナショナリズムを否定的に捉えるのは自由。また、人間誰しも見たくないもの評価したくないものが見えないことや矮小化してしまうことはままあることでしょう。しかし、それにしてもなぜ天声人語子はナショナリズムを批判する姿勢を貫き、正面から読者にサッカーワールドカップという<魔方陣>が呼び寄せたナショナリズムの危険性に直接警鐘を鳴らさなかったのか。そうすれば、主張への賛否は別にして、その主張の曖昧さゆえに読者が言うに言われぬ不愉快さや欲求不満を感じることもなかったでしょうに。

蓋し、「ナショナリズムがなぜに悪いのか」を天声人語子は説明できなかったのではいか。ゆえに、ナショナリズムの顕現たる諸事象を<対処療法>的にクサシ、批判することしかできなかったのではないか。あたかも校則をたてに茶髪を禁止する都立高校の生活指導担当教師のように。私はそう考えます。

日韓ワールドカップから早や8年。グローバル化が益々進行する現在。ナショナルな<ユニフォーム>を着ずに世界と世間に出ることが日本人にとって可能でしょうか。要は、自分の属する民族や家族や国家という属性を剥ぎ取られた時、人は<自分>であり続けられるものでしょうか。蓋し、茶髪が校則で禁止されることなどとは違いナショナリズムは<悪>でも<善>でもないのではないか。それは少なくとも人間性の本性に根ざしたもの、否、人間性の本質的なパーツそのものだから。

畢竟、カントとフッサール、ポパーとウィトゲンシュタインの哲学が明らかにしたように、私の意識そのもの、すなわち、自意識たる「先験的統覚≒超越論的統覚」は言語の形態を取る。要は、人は言葉で考える。そして、私は日本語に結晶し日本の文化規範に結晶している日本の文化と伝統と歴史を離れて日本人としての<私>も<貴方>も存在し得ないと考えています。

而して、この経緯は洋の東西を問わず、また、地球半球の南北を問わず妥当する事柄だと思います。つまり、ナショナリズムが<悪>であるとするならば、人間自体が<悪>になってしまう。畢竟、もし、ナショナリズムが<悪>であったとしても、人間にはナショナリズムというその<悪>と平和的な共存の関係を取り結ぶ道しか社会を維持する方途はないのではないか。ならば、2011年現在においても朝日新聞の天声人語子は(ここまでナショナリズムを掘り下げた上でも)、それでもナショナリズム的な現象を矮小化して、あたかも<コギャルの茶髪>と同じようなものと考えるのでしょうか? 

ナショナリズムからの排外主義的な政策やその極北としてのテロリズムの結びつきは国際関係の実定法秩序によって制限される。現在、どの民族も国民も他のどの民族や国民とも無関係には存続できない。而して、ナショナリズムの赤裸々な現実化には箍がはめられており、逆に言えば、朝日新聞のナショナリズムへの危惧は本来危険ではないものを危険であると叫びつづける<狼少年の叫び>であり、それは、裸の王様を騙した<詐欺師の執拗な囁き>なのではないでしょうか。なぜならば、8年前、遅くとも平成14年7月1日には日本国民の少なからずが人間存在にとってのナショナリズムの不可避性と普遍性を了解したにもかかわらず、朝日新聞は「ナショナリズムは世界的に見れば最早廃れた陳腐なアイデアですよ」と書き、現在も書き続けているのですから。

ナショナリズムの名の下に「排外主義的対応をとる」ことや「テロに訴える」ことは、それが国際秩序を維持している実定的なルールに違反する程度に至る場合には許されない。しかし、他方、ナショナリズムはそのような国際的に実定的なルールと秩序を動態的に形成する究極のエネルギーでもある。なぜならば、ある主権国家の意思を形成していくものはナショナルな諸国民の意識に他ならないからです。国際的の秩序に参加するプレーヤーが本質的には主権国家に限られている現在この帰結は必然でしょう。主権国家以外に国際秩序を形成するものは存在せず、そして、主権国家の意思を現実に形成していいるのはコスモポリタニズムなどではなく法秩序と政治秩序を動態的に形成している国民の法意識であり国民の一体感(すなわち、ナショナリズム)に他ならないから。

自国チームの勝利に喝采を叫ばせPK戦負けに涙させるものはそのチームへの感情の移入でしょう。而して、その感情移入は自国チームと<私>とは文化と伝統と歴史と運命を共有しているという認識に基礎づけられている。畢竟、ナショナリズムは人間本性の自然な発露であり、日本人は大東亜戦争後の戦後日本に極めて特殊な戦後民主主義、反ナショナリズムの呪縛から日韓ワールドカップが閉幕した平成14年6月30日をもって解放された。すなわち、ナショナリズムは<霊界>からサッカーワールドカップという魔方陣を通って再び日本の社会に舞い降りたのです。エロエロエサイム♪

それから8年。2010年ワールドカップに向け多くの日本人がサムライブルーのユニフォームを着て南アフリカに羽ばたいた。ならば、ナショナリズムの逆襲はそう遠いことではないの、鴨。2011年の睦月、日本では保守改革派主導の政界再編が具体的日程に登りつつある現在、私はその手応えを感じています。

尚、「サッカー」というメディアが移す<世界>と、グローバル化の昂進著しい現下の<世界>におけるナショナリズムの来し方と行く末に関する私の基本的な理解については下記拙稿をご参照ください。


・世界共通語と国際政治の舞台としてのサッカー
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/52181882.html

・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59953036.html


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◇解題

>恥ずかしながら申し上げますと、私は「ハットトリック」をバスケットボールみたいに
>3点シュートがあるんやと思うておりました。

>サッカーの発祥地はイングランドですよね。そのイングランドでは‘soccer’とは呼ばず
‘football'て言いますよね。なんで‘soccer’になったんでしょう。


という質問をいただいたことがあります。

はい。

ええ、サッカーにも「バスケットボールみたいに3点シュート」はあるんですよ。というのは嘘です。要は、「バスケットボールみたいに3点シュート」が認められるfootballが実際にあったかどうかは知りませんが19世紀後半まではボールを足で扱うゲーム(football)は何種類もありました。そして、今サッカーと呼ばれるその中の一つ(a certain football of footballs)を他のフットボール(footballs)と区別するために、(今サッカーと呼ばれる)the footballを運営するイングランドの協会(an association)が1863年に統一ルールを制定したことにちなみ、そのゲームが「football of the association」略してsoccerと呼ばれることになったのです。

ですから、サッカー以外に有力なfootballsがない国や地域では「サッカー」という言葉は使われず、その地に有力なfootballゲームがある国(ex.US)等では「サッカー」と呼ばれています。

ちなみに、今「サッカー」と呼ばれているfootballは、現在「ラクビー」と呼ばれることになるfootball等々との差別化を意図して、オックスフォード・ケンブリッジを始めとするハイソな大学やパブリックスクールで自覚的にルールを厳格化した末にできた(フェアキャッチの禁止等々)、当時、最新のfootballだったのです。

而して、「ラクビーの発祥は、1823年、ラクビー校のウイリアム・ウェツプ・エリス少年が、(ゴールキーパー以外手を使えないはずの)サッカーの試合中にボールを抱えてゴールに走りこんだ故事に由来する」という伝説は、<伝説>であり<嘘>なのです。なぜなら、当時、サッカーなどこの世に存在していなかったから。

と、この質問にはお答えしました。


と、賢しらに回答したものの、そして、この回答は日本でもサッカー好きの間では最早「常識」であろうとは思いますが、思えば、フランスWC以前の日本は<サッカー>も<ナショナリズム>も、本当には思想的に、否、皮膚感覚では理解されてはいなかったの、鴨。そこは鎖国というか夜郎自大的の意識の支配する世界だったの、鴨。

而して、フランスWC以降は、世界標準の「サッカー」と「ナショナリズム」というものが思想やサッカー好きの頭だけではなく、それこそ小田急線内の女子大生の会話レベルまで入ってきた。

それは他人事ではない。思えばそれは30年近く前のこと。当時、TVで三菱ダイヤモンドサッカーを私は欠かさず見ていました。はい、確かに見てはいました。しかし、正直、当時の欧州・南米と日本のレベルが違いすぎて、(今から思うに)その凄さがよく理解できていなかった。


これ野茂英雄以前の、日本人が誰もいない時期、たまにTVでメジャーリーグの試合を見ても、多くの日本人が日本のプロ野球とメジャーリーグのレベルや文化の違いが今ひとつわかっていなかったのと同じでしょうか。

フィジカル面の彼我の差に加えて、パスの精度とかゴール前でマウスにボールを流し込むパターンを複数イメージできていること、フォメーションを適宜自在に変更して、かつ、すべての選手が新しいフォーメーションにおける自己の最適行動を自動的に演じること。しかも全員がアイコンタクトで(否、ノールックで!)・・・。溜息。

当時の日本とはそれは正に別競技だった。而して、それは選手・監督のレベルだけでなく観衆の理解度についても言えたのだろう、と。そう私は思います。






(2011年1月5日:yahoo版にアップロード)

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