哲学と将棋のアナロジー遊び

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哲学と将棋の話しを書きたいと思います。なぜ、「将棋の比喩を使って哲学を語ろうと思った」か? 単純な話しです。私は哲学と将棋が好きだから(笑)。そして、両者が少なからず似ていると日頃から感じているからです。どこが似ている? それは大きく三つあります。

(A)目的と手段の関係における類似:

将棋も哲学も相手の玉将を詰ますことを目標にしており(哲学の場合、個人的にせよ社会的にせよある現実的な課題を思想的に解決すること、あるいは、他の諸学問/諸科学に目的と方法論を提供することを目指す)、その目的とその目的を達成するために繰り出される諸営為の関係について、将棋と哲学は似ていると感じること。

(B)知識の集積における類似:

将棋も哲学も先人の知識の集積の上に、日々新しい知識・経験が積み上げられていく点で共通していること。

(C)プレーヤーの力量の持つ意味が共通:

将棋も哲学も結局は知識や情報の多寡に関係なく(といえば、嘘になりますが、少なくとも知識・情報の多寡だけではなく)、プレーヤーの才能によって勝負や強弱が定まる点で似ていること。

哲学の本場であるヨーロッパには、「哲学とは何か」という問い対する定番の解答が用意されています。それは「君や君の家族のお腹を満たしもせず、さりとて、若い女性のお腹を膨らませるものでもない行為」という艶っぽい解答です。

これがジョークなのか真面目な返答なのかは私にはわかりませんが、けれども(少なくとも新カント派成立以降、そして、安全に言って、現代の分析哲学が誕生した後の時代に限らせていただくのならば)、私は、哲学は現実に生起している問題を解決しようとする志向性/指向性がどの精神科学や社会科学にもまして強いものであり、また、それらの諸問題を解決する力を現実に持っていると思っています。もっとも、哲学の力とは、隣接の諸科学に科学方法論を提供し、政治や芸術を巡るディスクールに生産的な討論の基盤を提供するという形を取るのでしょうけれども。

もちろん、「私は何ものか」、「私はどこから来てどこに行くのか」、「私は何のために生きているのか」等々、素面で書けば頬がポーット赤らむような問いに真正面から立ち向かうのもまた哲学でありましょう。けれども、社会的な正義や価値の根拠を問い諸科学の言説と思索に正しさの根拠を与えるのもまた哲学です。この両者は哲学的思索の根っこではつながっている。哲学は、真理と価値の体系をゼロベースからする構築に他ならないだろうから。

哲学は、その思索をゼロベースから始める点で宗教と近似しているが、言語を使った知の体系の構築にその領域を限定する点では宗教とは異なる。哲学は、正義や価値や意味を扱う点で道徳学や法律学と隣接するが、社会規範を収集し記述し体系づけることに自己の領域を限定する道徳学・法律学とは異なり、勇敢かつ大胆にも規範の意味の意味を、規範の正当性の価値の価値を、即ち、規範を巡る言説の根拠の根拠を探求しようとする点で哲学はそれら隣接諸科学と明らかに違っている。

あらゆる既存の価値がその神通力を失いつつあるようにも感じられる21世紀にもなって、天下国家を語ることや人生の意味を問うことには確かに処女の恥じらいのようなもの(この「処女の恥じらい」という形容句は最早、日本では死語でしょうか♪)を感じないではありません。しかし、その問題は総ての人や社会が現在でも決して避けては通れない問いでもありましょう。逆に、民主主義・平和・自由・平等などの既存の価値が神通力を失いつつある今こそ、それらをゼロベースから問い直す哲学の営為はかえって萬人に要求されていると言えるかもしれない。私はそう考えています。


◆哲学は進歩するのでしょうか?
将棋の往年の名人上手が魔界転生してこられ現代の現役の棋士と対戦した場合、その勝敗はどうなるでしょうか? 人工知能技術の発達はそう遠くない将来に、ヴァーチャルな電脳空間に往年の名人上手を蘇えらせることも可能かもしれませんが、現役のプロ棋士や将棋に詳しい観戦記者の方々が言われるには、おそらく、江戸時代の不世出の名人と言われた第6世名人大橋宗与も第7世名人伊藤宗看(三代)、第10世名人伊藤宗看(六代)も現在のプロ棋士と対戦すれば100戦100敗だろう、ということらしい。

囲碁では江戸時代の本因坊秀策の棋譜は現在のプロ棋士の水準を遥かに越えていると言われているようですが(ほったゆみ『ヒカルの碁』(集英社)参照)、実際、ここ20年あまりの中国や韓国の囲碁レヴェルの向上を鑑みますに、おそらく、それは天才秀策にして起こる特異な例であり、研究の進歩から取り残されたプレーヤーと日進月歩の技術革新をフォローしているプレーヤーとの力量の差はいかんともし難いと私は思っています。

囲碁の国際棋戦で20年前までは日本の棋士は(もちろん、呉清源、林海峰、趙治勲等々の外国出身棋士を勘定に入れてのことですけれど)、韓国や中国、台湾の棋士にほとんど負けなかったと記憶しています。それが、囲碁人口の多さ、プロ棋士の層の厚さを与件としたものか、中韓囲碁界と韓国碁界における長足の研究の進歩によって、現在では日本の棋士は中韓や韓国の棋士にほとんど歯が立たないのが現状です。ならば、ましていわんや江戸時代の平均的な囲碁名人と現在のプロ棋士の力量差においておや、ではないでしょうか。

では、哲学史を絢爛に彩る天才達が魔界から転生してきた場合は如何。例えば、ソクラテスやプラトンやアリストテレスが、アダム・スミスやマルクスやJ・S・ミルが、ルソーにロックにバークにモンテスキューが現在に蘇った場合、彼等は現代の哲学者よりも上手に現代社会の問題を解決することができるでしょうか? 

彼等、哲学史上のビッグネームは現代社会が抱える諸問題(原子力や遺伝子組替え技術の制御にせよ、少子化やフェミニズムが提起する問題にせよ、援助交際や少年犯罪の問題、民族紛争や南北問題や外国人との共生の問題、地方の再生やゆとり教育の問題等々)を現代の哲学者よりも上手に思想的に解決できるでしょうか? 

デカルトやニュートンやライプニッツやカントが、フレーゲにフッサールにフロイトにソシュールが21世紀の今忽然と立ち現れたとして、現代の諸科学が抱える方法論的な課題(価値相対主義の克服や批判的合理主義の提起する諸問題、分析哲学派が呻吟する科学の真理性の根拠づけ等々)を現代のプロの哲学者よりも見事に克服できるでしょうか? 私は否定的に考えています。現在の二流の哲学者の方が上記のビッグネームよりもより上手に現代が抱える諸問題を哲学的に処理できると私は思います。しかし・・・。

しかし、哲学史を飾る天才達や江戸時代の囲碁や将棋の名人上手が魔界から転生してきて、現在の知識の水準をキャッチアップしたとしたならば話は別ではないか。そう、本因坊秀策や第6世名人大橋宗与も最初の100戦では現代のプロ棋士に1勝もできないにしても、次の100戦では1敗もしないかもしれない。これは、あの「王将♪」の坂田三吉(増名人)も明治から大正にかけて活躍された小野五平第12世名人でも同じでしょう。

哲学においてもしかり;現代数学や精神医学、近代経済学に物理学、はたまた、社会学や文化人類学の知識を身につけ、哲学の学説史をキャッチアップしたらという条件ならば、哲学史上の巨人達は現代社会が抱える課題を現在の一流の哲学者よりも遥かにラディカルに遥かに直截に解決するかもしれない。私はそう考えます。

現在に至る知の体系をキャッチアップした上でというこの条件下ならば、例えば、前ソクラテス期のソフィスト達は「援助交際して何が悪いの」という渋谷に屯する女子高生達(=スフィンクス)の謎かけに見事に答えるかもしれない。例えば、魔界転生したアウグスティヌスは現在のトップクラスの社会哲学者よりも見事に「最新の科学技術の制御はいかにあるべきか」の難題を解決してくれるかもしれない。要は、将棋も哲学も最後は才能の勝負なのだと私は思っています。そして、私のこの才能と知識に関する感覚と『ヒカルの碁』のそれはかなり近いかもしれない。そう、『ヒカルの碁』の藤原佐為は、短期間に現在の囲碁の知識体系をキャッチアップして、現在の最強棋士塔矢行洋名人に勝ったのですから。最後は才能なのでしょう。囲碁も将棋も哲学も。

整理します。天才といえども単純には魔界転生してきた段階では現在の二流のプレーヤーに劣るが、現在に至る知の体系をキャッチアップするやいなや彼等は現代の一流のプレーヤーをも凌駕すると私は考えます。それは、①将棋にせよ哲学にせよそれらの知識はプレーヤー個々人を離れた知識の体系として存在していること、しかし、②将棋にせよ哲学にせよその知識体系を各プレーヤーが踏まえた時点からは才能の勝負にならざるを得ない、と思うからです。

ウィーンで生まれ、ニュージーランドを経てその後、長らくロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)の教壇に立たれたカール・ポパー卿は、我々がそこに存在するこの世界を3個の領域に分けられました。物的対象世界、人間の精神世界、人間というか作者を離れて成立する知的作品の作る世界の3者です:ポパー卿はこれらを各々、世界Ⅰ、世界Ⅱ、世界Ⅲと命名されました。ポパー卿の枠組みを借用させていただければ、将棋や哲学の知の体系も法律の体系や文化の規範体系と同様にこの世界Ⅲに属することになると思います。

将棋や哲学の知の体系は、世界Ⅱたる個人の(棋士や哲学者の)主観領域の中で産まれ育まれるものには違いないのですけれども、それらが世間に向けて発表表出され将棋や哲学のコミュニティーの共有財産になったあかつきには将棋や哲学の知の体系は世界Ⅲの住人になる。よって、その道の天才といえども魔界転生してきたばかりの段階では二流の棋士や哲学者にも劣ることは理にかなっていることでしょう。二流の棋士や哲学者といえども彼等は過去の膨大な知の体系の上に乗って闘っているのでしょうから:この経緯は正に、ニュートンが語った「私は小人にすぎない。私は先人の業績という巨人の肩の上に立った小人にすぎなかったのです。そして、巨人の肩の上に乗った小人にして幸いにも私は他の人よりも少し遠くを見渡せたのです」という経緯そのものでしょう。要は、どのような高性能のPCも古いアプリケーションソフトを搭載していたのでは最新のソフトを搭載した安物のPCにも劣るということです。


◆将棋と哲学の比喩談義
さて、将棋と哲学の具体的な比喩談義に移ります。しかし、比喩はあくまでも比喩でありそれはどんなに首尾よく行ったとしても「知的な遊び」に過ぎない。よって、遊びを少しでも意味のあるものにするために、先ず、幾つかの言葉の意味を決めておくことにします。ゲームの勝敗、位取り、堅さ、速さ、飛車・角・王将、持ち駒、2歩の禁止、打ち歩詰めの禁止、序盤・中盤・終盤という将棋の言葉が哲学の何を指し示すのかを決めておくのです。

ゲームの勝敗:
ある社会的な問題や個人的な課題がこれまた社会的に解決されること

位取り: 隣接諸科学を含む知の体系性
堅さ: 思想的立場の堅固さ
速さ: 問題解決までの論理過程の長さ
飛車: 社会学的・文化人類学的な知識
角将: 論理と数理の知識
王将: 解決されるべき課題や問題
持ち駒: 問題を解決する過程で得られた知識や資料あるいは隣接諸科学の知識や理論

2歩の禁止: 同語反復や問いに対して問いで応えることの禁止
打ち歩詰めの禁止: イデオロギーによる独断的解釈の禁止
序盤:解決すべき問題や課題を発見する知的格闘の領域
中盤:解決すべき問題や課題を具体的かつ現実的に捉える知の格闘領域
終盤: 解決すべき問題を思想的かつ本質的に捉える/それら諸問題が解決された場合のイメージを提示する知の格闘領域


将棋には様々の戦法があり、哲学にも様々な流派があります。
将棋には、矢倉、角換り銀、棒銀、腰掛銀、居飛車穴熊等々の居飛車戦法。中飛車、三間飛車、四間飛車、向飛車、そして、升田式石田流や藤井システムという多様な振り飛車戦法。序盤戦から一気に大駒(=飛車と角)を空中に(敵味方の歩の間の4~6段目に)走らす華麗な捌きで棋譜を読むものを魅了する内藤流空中戦等々20以上の基本戦法があるとされています。

哲学にも、カントに発するドイツ観念論哲学、分析哲学、解釈学、マルクス主義、構造主義&ポスト構造主義、プラグマティズム、現象学、実存主義等々の流派が現在の社会的問題や個人の課題の社会的な解決に向けて<対象世界>と激しく闘っています。以下、哲学のガイダンスとして上記8個の哲学思潮を将棋の戦法になぞらえて説明しようと思います。

私は、ある哲学(者)を評価・理解する場合に通常2重のテストを行っています。即ち、私の哲学の基盤たるカントを消尽点にした思想の遠近法の配置構図の中に問題の哲学(者)を位置づける哲学史のテスト。そして、他の1つは、対自然関係、対国家権力関係、対社会(世間/他人)関係、対文化関係の5個の課題に回答する能力判定テストです。以下のアナロジーの遊びもこれら2つのテストを踏まえたものになります(私の好きな哲学者ランキングに関しては、本家サイトの「MY好きな哲学者&思想家ランキング」をご参照ください)。


尚、私は、原始仏教と中観派の仏教哲学、イスラーム思想ならびに法家思想と朱子学を哲学として高く評価する者です。また、西洋の哲学なるものが、実はキリスト教神学という本社鉱山で使用される機械や工具の生産とメンテナンスを担当する本社鉱山専属機械工場に過ぎなかったこと(日立鉱山と日立製作所の関係と同じ:神学と哲学の関係はHITACHIとは違い今でもそう理解することは不可能ではない!)、現在の西洋哲学の基盤となった古代哲学や中世哲学は、実は、その大部分がイスラーム世界から輸入された資料と理論を元に再構成されたものであることを知っています。けれども、この記事では現在の西洋哲学に限定してアナロジーの遊びを楽しむことにします。なぜならば、哲学は現実の思想的問題と課題の解決を目指すものであり、それ単体で問題と課題を解決する力を保持しているのは一人西洋哲学であると考えるからです。


◆哲学派と将棋戦法  KABUの独断と偏見によるアナロジー遊び
(a)ドイツ観念論(新カント派を含む):矢倉戦法
攻守にバランスの取れた哲学。攻が遅いきらいもあるが、隣接諸科学に堅固な方法論を提供し位を着実に取れる。KABUの基本戦法。

(b)分析哲学:角換り銀・棒銀戦法
問題解決までの手数の少なさ、抜群の角の捌き(論理展開の見事さ)が魅力。最近は、持久戦に備えて中盤の工夫も進んでいる。2歩を指しやすい点は要注意だが、KABUも愛用する戦法。

(c)解釈学:内藤流空中戦&腰掛銀戦法
大駒(飛車と角)を自由に動かし、獲得した持ち駒を材料に問題の本質にズバリと迫る。守りは堅くはないが、序盤の構想は素晴らしい。新規の流派に見えるが、古代ギリシアに端を発し、原始キリスト教の時代から研究を積み重ねられた戦法だけあって冒険的な手に見えながら手堅い。KABUもしばしば採用する戦法。

(d)マルクス主義:中飛車・升田式石田流戦法
戦後(1848年後!)を代表する戦法。社会的な事実を重視し、敵の弱点(ブルジョア思想の弱点)に自在に飛車を動かす(知識の収集とそれに基づく批判)アイデアには、この戦法が登場した段階では誰も対抗できないほどであった。現在では、ごく普通の戦法の一つ。打ち歩詰の禁じ手を指しやすい点には注意。KABUも大学時代から30代前半まで多用した。

(e)構造主義&ポスト構造主義:藤井システム
コロンブスの玉子。自分の立場を内面から固めるのではなく、他者との差異から自分の立場の根拠を固める。攻撃は最大の防御という居玉のままの振り飛車速攻の戦法。これは思想基盤をガチガチに固めて、思想の事務処理の局面で漸次有利な地歩を固めるアメリカ流の居飛車穴熊戦法(=プラグマティズム)に対抗すべくヨーロッパの哲学界が開発した新手法。計算し尽くされた華麗さを見るものに感じさせるが、開発者本人にしか使いこなせないきらいもある。初心者は要注意。

(f)プラグマティズム:居飛車穴熊戦法
とにかく堅い。中盤で少しづつ優勢を固め、最後は自玉の堅さにものを言わせて強引に相手玉を詰める。見ていて面白くない。

(g)現象学:八5飛横歩取り戦法
序盤に革命をもたらした戦法。速さと堅さとを兼ね備えるが、位取りが弱点。しかし、相対主義的な非決定論とマルクス主義やフロイト派の決定論のアポリアを八5飛の1手(現象学的還元)で解消したアイデアは凄い。位取りが弱い分、有力な持ち駒が入手できないことが多く、必勝形になっても詰み(具体的な問題と課題の解決)に不安が残る。

(h)実存主義:左美濃
発想の転換。相手飛車のいる自陣左側で王将を囲み、王将を守るために自分の飛車を動かす手数を最少にした上で飛角連動で早く攻めに移る戦法。流石、元祖のキルケゴールは婚約解消しながら(飛車側に王将を動かすリスクを犯しながら)、哲学の基盤たる人間存在の本性を掴み取っただけのことはある。ただ、位取りが弱い。



(2005年8月8日:英語と書評 de 海馬之玄関にアップロード)

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