【自家用資料集】最高裁「国歌斉唱不起立訴訟」合憲判決




2011年5月30日に出された、おそらく、実質的に最後となる「君が代訴訟」の最高裁判決。この判決を憲法訴訟論と国家論の交点で俎上に載せる記事を準備しています。而して、その記事に使用する資料がそれなりのボリュームになってきたので、「資料保存記事」を先にアップロードすることにしました。


◆報道各社の第一報で見る「国歌斉唱不起立訴訟」最高裁判決の概要

エッセイーのような毎日新聞の第一報はスルーして、
朝日新聞・読売新聞・産経新聞の第一報を紹介します。

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産経新聞の記事がもっとも詳細であり、かつ、客観的で好感の持てるものだと思いますが、このイシューでは、おそらく、日本でも最強の記者(小林篤子記者)を擁する読売新聞の第一報が、憲法論的な観点からは首一つ抜けていた、鴨。そう思いました。

ということで、憲法論的には今回の最高裁判決の<プロトタイプ>とも言うべき、2007年の最高裁「ピアノ伴奏拒否訴訟判決-君が代伴奏命令拒否処分合憲判決」の復習もかねて、下記拙稿で小林篤子記者の分析力をご堪能ください。

・<君が代伴奏命令拒否処分>合憲判決☆読売の一記者に負けた朝日
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60241870.html


しかし、憲法訴訟の報道記事は、どうも日本語で読んでも隔靴掻痒。「何が問題とされてきたのか、今回の最高裁判決はそれをどう解決したのか」が日本語では今一つはっきりしない節もなきにしもあらず。よって、共同通信の記事も紹介しておきます。実際、正直な所、どうせ日本の現行の憲法典はマッカーサー元帥に作っていただいたのだから、少なくとも、憲法典を巡る論議は英語で行なうようにした方がお互い効率的なの、鴨。


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上で「憲法典」という用語を使ったこともあり、このブログでも度々になりますが、「憲法の定義」に関する私の基本的な考えもここで確認させていただきたいと思います。要は、「憲法典がマッカーサー元帥からのプレゼントだとしても、日本の現行憲法、日本の実定法たる憲法体系の枢要な部分は必ずしもアメリカ製ではない」ということ。だから、上で書いたことも誤解がないようにリライトすれば、「現行の日本の憲法典=日本国憲法」を巡る解釈論に関しては護憲派も改憲派も、保守派もリベラル派も日本語よりは英語で、あるいは、日本語だけでなく英語でもその主張を述べるようにした方が、お互いに時間の節約になるのではないでしょうかということ。と、満更冗談抜きにそう私は考えなくもないです。

◎憲法の意味

機能論的に観察された場合、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、それが存在する規範形式に着目する場合、

(イ)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか "The Constitution of the United States of America" のように「憲法」という文字が法律の標題に含まれている憲法典。および、(ロ)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、「憲法」とは、()法典としての「憲法典」に限定されるものではなく、()憲法の概念、()憲法の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が動態的に確定するもの。よって、それらは単にある諸個人がその願望を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により記述可能な経験的で間主観的な規範体系なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。   


尚、私が考える「憲法」の意味内容の詳細に関しては下記拙稿もご参照ください。

・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59308240.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60191772.html

・中川八洋「国民主権」批判論の検討(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60044583.html



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◆生判決で読む「国歌斉唱不起立訴訟」最高裁判決の内容

憲法学に限らず、法学の学習は、まず第一に条文と判例を通して実定法としての法規範の内容を知ることです。要は、近い将来に生起/惹起するであろう事態がこの社会の中で法的にはどういう問題として理解されどのように処理されることになるのかということに関する具体的で豊富な知識の習得が法学の学習である。その観点からは基本書や参考書などはあくまでも二次的な<教材>であり、法文と判例こそが最重要な<教材>である。ということで、本物を読みましょう。

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尚、5月30日の「国歌斉唱不起立訴訟」最高裁判決の全文は、
下記抜粋画像下のURLでアクセス可能です。
 http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20110530164923.pdf




◆悔しさ滴る朝日新聞社説の支離滅裂と傲岸不遜

憲法訴訟に関して一通りの知識のある方なら、この朝日新聞の社説は今般の「生判決」の我田引水と誤解でしかないことが分かると思います。詳細は続編の本編記事で展開しますが、皆さんもご自分で「間違い探し」して見てください。楽しいです。文字通り、笑えますから。

尚、憲法訴訟論に関してはとりあえず下記拙稿をご一読いただくのが
「急がば廻れ」の早道かもしれません。

・公務員労組と公務員の政治活動を巡る憲法論(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59383691.html

・外国人地方選挙権を巡る憲法基礎論覚書(壱)~(九)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/58930300.html


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◆国家雑感と定義の定義

本資料集の最後に、「国家」に関する雑感と、これまた度々になりますが「言葉の意味」ということ、蓋し、「言葉の意味の意味」や「定義の定義」について私見をまとめさせていただきます。要は、本稿の続編でもまた、「国家」は言うに及ばず、「民主主義」や「人権」、「憲法」や「主権」という極めて多義的な概念表象を扱う都合上、ある言葉をどのような意味に使用するべきかという語使用のルールのルール、定義の定義について予め確認させていただきたいのです。この点に関して私はこう考えています。


◎定義の定義

現在の英米流の分析哲学は「定義」という言葉には概略3個の意味があると考えます。すなわち、語を定義するという言語行為をは「辞書的定義」「規約定義」「事物定義=語の経験分析」の三者に区別されるということ。

要は、「その語彙は世間ではこのような意味で使用されてきた」という情報提供、「私はこの語彙をこれこれの意味で使用する」という宣言、そして、過去の経験に基づきその語彙を巡り人々が連想する事態や事物の範囲や属性、構造や機能に関する陳述の三者を「語の定義」と考えるのです。 
   
本稿の考察は、前二者の「辞書的定義」「規約定義」をも(その場合には都度明記するとして)適宜用いながら、基本的には、「事物定義=語の経験分析」を専ら使用して行ないます。   



そして、国家とは何か?


◎国家雑感

国家とはどこまでもどこまでも限りなく<私>が抱いている単なるイメージにすぎません。よって、それはイメージが投影される地点の変化に伴い自ずとその内容も変化するもの。例えば、ハンス・ケルゼンが喝破した如く、法学的に見られた場合の国家とは法体系そのもであり、他方、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』が描いたように、「歴史的-文化的」な観点からは国家とは伝統として恒常的に再構築される価値と規範の体系以外の何ものでもない。蓋し、国家とは<私>の意識に立ち現れる重層的かつ複眼的な観念的の表象なのだと思います。

重要なことは、<私>が抱く国家のイメージはフッサールの言う意味での間主観的なものだということ。そして、国家を巡る世の具体的な森羅万象は、そのような<私>の間主観的な国家のイメージを「消尽点:a vanishing point」とする遠近法的の構図の中でのみ理解可能な、各プレーヤーの織成す「演技:performance, Schauspielkunst」、すなわち、ウィトゲンシュタインの言う意味での一個の「言語ゲーム:a performance in Language Game, eine Schauspielkunst in Sprache-Spiel」である。

要は、「国家」は関係概念であり機能概念にすぎず、普遍的に妥当するような(つまり、「いつでもどこでもだれにでも、単一かつ同一の指示対象を提供する」ような)実体概念ではないということ。敷衍すれば、国家とは、<私>の主観とは独立に、かつ、他者の介在なしに単独で実在するものではない。よって、ヘーゲルの「絶対精神」なり「時代精神」、マルクスの「歴史の弁証法的発展の各歴史段階に実在する階級支配の関係」等々の実体概念としての国家観は哲学的に成り立たないのです。

蓋し、このような国家認識は、新カント派の認識論、および、現象学的や分析哲学的の世界認識と整合的であり、要は、現在の社会科学方法論の最大公約数的な理解であろうと思います。

而して、①唯心論的な観念性、②間主観性、③言語性、④関係性、⑤重層性-複眼性を帯びるものという国家認識と矛盾する国家の理解は(もちろん、「国家」という言葉でどのような対象や事象を指し示そうともそれはその論者の勝手であるにせよ、少なくとも、他の「補助線的認識」を伴わない単体の理解としては)、公共的な言説空間での議論において、就中、何らかの行動を国家に要求する議論においては説得力を持ち得ない。と、そう私は考えています。   



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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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