書評☆古木宜志子「津田梅子」(上)




けしからん、不条理だ、「数学に可成の重点が置かれる」と書いてあった。英語の学校のくせに何だ、こりゃあ。気をおちつけておそるおそるのぞき見た数学の問題のレベルと言った日には、・・・。


これは、当時17歳のある少女が、神田の受験参考書専門書肆で買い求めた津田塾大学(当時、「津田英学塾専門学校」)の前年度の入試問題を、お茶の水駅近辺の「貧相な、学生向喫茶店」で初めて目にしたときの懐古談です。時に、1938年、その少女とは、日本の保守主義の良質な部分を代表する方と私が私淑している犬養道子さん。犬養さんの自伝エッセー『ある歴史の娘』(中央公論社・1977年, pp-248-249)から引用させていただきました。

ちなみに、1864年12月31日生まれの津田梅子先生は、この<少女>が津田塾の入試問題を見て憤ったときから9年前の1929年には逝去しておられ、津田塾自体も、1900年のその(当時、「女子英学塾」)開校以来の拠点であった麹町・番町エリアから、1932年5月には現在の津田塾大学のキャンパスのある小平に移転していました。ちなみに、津田塾が小平に移転した1932年の5月とは、昭和7年の5月であり「5・15事件」が勃発した5月。11歳の犬養道子さんが祖父・犬養毅総理の暗殺という<公的事件>に同居家族の一員として首相官邸で遭遇したその5月に他なりません。そんな時代に、犬養さんは津田塾と津田梅子先生に思いを馳せていたということ。



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犬養道子さんだけでなく津田梅子先生を取り巻く人脈や縁は、
地味だけれども一つの広がりを日本の社会に占めています。

例えば、梅子先生の父君、津田仙氏(1837-1908)と、梅子先生が始めて留学されたときには、その「法律上の在米資格」が(1864年の脱藩渡米によって江戸期の国禁を犯しての)不法出国者の身から正規の滞在者に変わったばかりの新島襄先生(1843-1890)は明治維新前、それこそ、ペリー提督の黒船来航(1853)の世相慌しき時代以来の友人であり、実際、新島先生は1874年に日本に帰国される前、アメリカについたばかりのこの「友人の娘」を訪ねておられる。そして、1882年、梅子先生と梅子先生の生涯の<戦友>、山川捨松、すなわち、後の「鹿鳴館の貴婦人-大山侯爵夫人」が足掛け12年の留学を終えて帰国する際、これら17歳と22歳のすっかり「ヤンキー娘」に成長した二人をアメリカから横浜までエスコートしてくださったのは、アメリカのキリスト教団体から「新島襄-同志社」監視の役回りを与えられつつ、結局、新島先生の生涯の<同志>であったJ・D・デービス牧師とその奥様でした。

あるいは、小説家の星新一氏の父君、戦前の日本の「製薬王」と呼ばれ、野口英世(1876-1928)のパトロンとしても知られる星一氏(1873-1951)は、1894年からほぼ一文無しでアメリカに留学しコロンビア大学を卒業したプチ立志留学伝中の人物ですが、星新一『明治・父・アメリカ』(筑摩書房・1975年9月)によれば、実は、この星一氏は梅子先生の16歳年下の妹君、よな子さんと婚約していた仲だったとか。   


蓋し、「津田梅子」という固有名詞は現在の日本でもそれなりの知名度を保っていると思います。
ただ、そのイメージとなると、

①国命・君命に従い満6歳にして、所謂「岩倉使節団」とともに太平洋を越え、前後11年間の米国留学に向かった健気な少女、②文学や英語学よりも理数系分野に秀でた異色の才媛、③明治の時代に、自立する女性の覚悟と方法を体現したロールモデル。そして、歴史裏話が好物の間では、④時の皇后陛下・皇太后陛下への忠誠心金剛石より固く、他方、⑤たとえそれがプラトニックなものであったとしても、伊藤博文の<愛人>だった開明保守の重鎮、⑥我が儘で頑固で癇癪持ち、そして、人の好き嫌いの激しい、えこひいきの権化のような、加之、⑦これまたたとえそれがプラトニックなものであったとしても、多分に同性愛志向があったエキセントリックパーソン・・・。 


大体、「津田梅子」を巡ってはこのようなイメージが世間では一般的、鴨。けれども、現在に至る津田梅子先生のイメージの元になった伝記著作は実はそう多くはありません。




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蓋し、オリジナルな調査研究と、および、その著述に整合性と真実性を担保する一定水準以上の社会科学方法論に裏打ちされたものとしては、Yoshiko Furuki『The White Plum』(Weatherhill・1991年)、そして、本稿で紹介する、『The White Plum』の和訳ダイジェスト版と言うべき、古木宜志子『津田梅子』(清水書院・1992年11月)が世に出る前は、到底<伝記>とは言えないと思うのですが、大庭みな子『津田梅子』(朝日新聞・1990年6月)も枯れ木も山の賑わいとして1点と数えさせていただくとして、吉川利一『津田梅子』(婦女新聞社・1930年2月)と山崎孝子『津田梅子』(吉川弘文館・1962年7月)の併せて3点しかなかったのですから。

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これは、どう控えめにカウントしても二桁を優に超える<伝記>が世に出ているであろう「福沢諭吉」(1834-1901)や、近代日本の政治社会史との関連でその研究書籍は、文字通り汗牛充棟の「大隈重信」(1838-1922)と対比した場合、「津田梅子」がマイナーな存在でしかないことの証憑なの、鴨。

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維新の余韻冷め遣らぬ1871年、満7歳目前の梅子先生は「不思議な運命」によってアメリカ留学に旅立たれた。しかし、成人された後の梅子先生のご性格や、例えば、「紫式部は道長の愛人だった」という類の主張は当然、加之、満7歳での留学というエピソードをも捨象するとき、「津田梅子」自体の業績とは、煎じ詰めれば、何が残るのか。蓋し、それは、女性の自立をその経済力の育成の側面から支援したこと。過激な民主主義や女性解放論には、最高のアメリカ通の一人でありながらも毫も賛同せず、社会で自立できる能力を備えた女性がそれなりの多数を形成できない限り女性解放や社会の近代化などは画餅に等しいという、穏当かつ中庸を得た主張を教育を通して実践されたことに尽きるということでしょうか。

=== 国際化の先駆者 ===
=== 女性の自立の体現者/唱道者 ===

梅子先生の業績がこのように、比較的限定された範囲に収斂・収束しているということ、この点が、例えば、同じ筋金入りの愛国者でありながら、日本の文化伝統とキリスト教精神との鋭い対立と融合を体現しつつ、その両者を止揚すべく闘われた新島襄先生との比較においても、要は、その業績が文明論的や社会思想的な広がりに乏しいことが「津田梅子」の業績がマイナーなものとされてきた原因のように思われるのです。謂わば、「津田梅子」の伝記は、激動の昭和史を潜った、現在も毎年毎年、万に近い生徒を受け入れている「料理学校」や「着物着付け学院」があるとすれば、それらの創業者の伝記とそう余り変わらないの、鴨。

この認識は正しいでしょうか。



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今から70年以上前、女子学習院の卒業をひかえていた犬養道子さんは、何故、津田塾を志望したのか。先程の自伝の中で犬養さんは17歳の自分の志を反芻してこう述べておられる(ibid, pp-244-245)。

津田英学塾は、言うまでもなく、津田梅子先生(1864-1929)の創立に成る私立(女子)専門学校である。・・・おくればせに志を立てて、自分の一生は自分の働きで賄おう、語学を手段として「狭きナショナリズム」を打ち破る仕事をしよう、学問をてだてに何故生きるか如何に生きるかを突きとめようと、雄大なプログラムをつくるころ、津田先生の津田だけが私の心をとらえて浮かび上がったのであった。他にも由緒を誇る東京女子大がある、高等師範【お茶の水女子大】や日本女子大がある、インターナショナルの聖心専門がある、東京を離れる気なら同志社がある。しかし、私は津田ときめた。決めた理由はふたつであった。

ひとつは、津田梅子先生が、最初も最初、わが国はじまって以来の第一番目の女子留学生、・・・しかも「あんな娘をアメリカにやる親は鬼か畜生か」と世間を驚かせた、わずか【数え歳】八歳の留学生であったこと。明治史のほとんどすべての書物にその写真が載っている、・・・

ああ開拓者! 前駆の少女!
未踏の地に八歳で入って行った大先駆!
彼女の開拓者魂を、彼女がつくった学校で、日々、わが理想の前に据えて眺めたい。
私もまた未踏の地に行きたかった。
第二の理由は、東京女子大、日本女子大、師範等々が都心か、あるいは都心にそう遠くないところにあるのにくらべて、津田のみが、武蔵野のはるかかなたにあることであった。   


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犬養さんの津田塾認識、よって、「津田梅子」認識は上で述べた、梅子先生の業績とそれが、ある意味、マイナーであることの理由とそう大きくは外れてはいないの、鴨。しかし、近代日本のエスタブリッシュメント層家庭の女子教育の期待を背負って創立された、謂わば「日本の資本主義」のイデオロギー装置の一つでもあった、要は、「開明的な良妻賢母」の育成機関として設立された日本女子大(1901年)は、土台、津田塾とは<競技種目>を異にするとして、津田塾の社員【理事】でもあり、伊藤博文公(1841-1909)とともに、梅子先生の後見人的の存在であった新渡戸稲造氏(1862-1933)が、梅子先生が【相手のてつ女史の意向など無視して勝手にではあるが、】自分の後継者と決め込んでいた節のある安井てつ女史(1870-1945)を学監に引き抜いて1918年に設立した東京女子大は、日本における戦前のプロテスタント系女子高等教育の<最終回答>とも言うべきものであり、本来なら、一留学経験者が創った私塾にすぎない津田塾にとって、少なくとも、マーケティング的には命運はここに尽きていてもおかしくなかったと思います。

蓋し、最初の帰国直後の梅子先生の<不遇>を巡っては、そう、帰国後も留学して得た知識・経験・技能・人脈を活かせるようなポジションへの配属がそうはなかった1990年前後の日本の企業派遣MBA留学生の帰国後の<不遇>とパラレルに、「梅子先生が10数年の留学から帰国してきても、封建的な当時の日本には英語のできる女性を活用するような場はなく、要は、明治政府もそれほど計画的に梅子先生や捨松女史等の女子を留学させたわけではない」としばしば語られる。もちろん、これはある面では正しいのでしょうが、梅子先生が留学している10年間に、日本の英語教育は、英語自体を学ぶことが自己目的化していたダイレクトメソッドの時代から、英語を通して知識を吸収することが目的の次の時代に移行していたのではないか。ならば、その変化した日本の社会では、英語力と11年間のアメリカ体験しか取り得のない<小娘>に与える仕事など、鹿鳴館で踊る以外にはそうはなかったのも当然なの、鴨。



<続く>
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