愛国心の脱構築-国旗・国歌を<物象化>しているのは誰か? (下)

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◆愛国心の脱構築

「愛国心」とは何なのか? 例えば、それは「日の丸・君が代」の起立斉唱によって涵養され得るものなのか。もし、否であれば、なぜ学習指導要領は「国旗・国歌の尊重」を謳い、最高裁も一連の判決でその学習指導要領の目的の合理性を容認したのか。

蓋し、ここで言う「愛国心」が、社会の常識、否、ある政治社会で生きるために不可欠なマナーという意味であれば、この問の答は「Yes」でしょう。けれども、この「愛国心」にそれを超える、例えば、「天壌無窮の神勅」なるものや「普遍的人権」なる内容を読み取ろうとするならばその解答は「No」です。

蓋し、多様な思想・良心、就中、千差万別な信仰という共約不可能なイデオロギーを抱く人々を<国民>として包摂して成立した、近代の「国民国家=民族国家」がその政治社会の構成メンバーに要求できる<愛国心>とは、かように内容の薄い、謂わば「アメリカンな愛国心」でしかないからです。

では、そのようなアメリカンな愛国心は憲法論的にはどのような規範意味を帯びるのか。要は、それに対する反抗は、憲法訴訟において、どの程度のどのような様態に至った場合に憲法の保障する人権の域外に放逐されるようなものなのでしょうか。


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前項の確認。近代以降の国家が、例えば、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』(1983)が喝破した如く人為的なフィクションにすぎないという経緯の確認です。

蓋し、例えば、現在、我々が「日本的なもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた制度・表象にすぎない。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。ゲルナーはこう述べています。
 
民族を生み出すのはナショナリズムであって、他の仕方を通じてではない。確かに、ナショナリズムは、以前から存在し歴史的に継承されてきた文化あるいは文化財の果実を利用するが、しかし、ナショナリズムはそれらをきわめて選択的に利用し、しかも、多くの場合それらを根本的に変造してしまう。死語が復活され、伝統が捏造され、ほとんど虚構にすぎない大昔の純朴さが復元される。(中略)

ナショナリズムがその保護と復活とを要求する文化は、しばしば、ナショナリズム自らの手による作り物であるか、あるいは、原型を留めないほどに修正されている。それにもかかわらず。ナショナリズムの原理それ自体は、われわれが共有する今日の条件にきわめて深く根ざしている。

【出典:アーネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』(1983年)
 引用は同書(岩波書店・2000年12月)pp.95-96】

 

畢竟、愛国心を肯定する論者が時々口にする、「地域コミュニティーに寄せる帰属意識とパラレルなものとしての愛国心」という愛国心の認識は社会思想的にはそう根拠の確かなものではないということです。

よって、愛国心は自然と培われるものではなく(誤解を恐れるまでもなく断言すれば)、それは強制され/演出され/メンテナンスされて初めて社会統合のイデオロギーとしての機能を全うできる類の、ある意味、根拠脆弱なもの。ならばこそ、逆に言えば、特別権力関係のカテゴリーに属する公立学校の教職員が、職務命令に反して、国旗掲揚・国歌斉唱の際に起立斉唱しないなどという不埒な言動には、断乎、社会的な制裁が加えられるべきなのです。


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ことほど左様に、近代以降の国家における「愛国心」とは、

・内容希薄なアメリカンな社会思想
・国家の社会統合の根幹を担う社会思想
・憲法秩序が強制をもってしてでもそれを維持するべき社会思想

という相矛盾する性格を帯びるもの。
蓋し、換言すれば、<愛国心>とは、

<可死の神>たる近代の主権国家における<非宗教的な宗教>


と規定できるのだと思います。


而して、<愛国心>のこの側面について、近代日本を代表する保守主義者と私が考える津田梅子先生はこのような見解を持っておられた。この部分の最も詳しい山崎孝子『津田梅子』(吉川弘文館・1962年7月, pp.147-149)より適宜引用させていただければ、梅子先生は、

日清戦争中、戦争と婦人の問題、愛国心の問題はやはり心をとらえることどもであった。1895年の5月には米国のThe Independentに「日本婦人と戦争」(Japanese Women and the War)と題する一文を発表した。この中で、日本女性の献身的自己犠牲の精神を深く讃えた。(中略)

翌1896年6月にWoman‘s Departmentにキリスト教と愛国心との関係を論ずる一文を寄せ、日本人の愛国心を深く讃えている。日本が【日清】戦争に勝ったのは、日本人が戦争好きであるためなどではさらさらなく、ひとえにこの純一無二の愛国心の故であることを強調している。愛国心と宗教の関係にさらに論を進めて、日本人に宗教心が欠けていると考えるのは誤解であって、日本人の場合、この愛国心こそ宗教そのものといっていいので、愛国心が宗教にとって代わっていることを論じている。(後略)


尚、保守主義者としての「津田梅子」という私の理解の背景に関しては、
次の拙稿をご参照いただければ大変嬉しいです。

・書評☆古木宜志子「津田梅子」(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60632975.html


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畢竟、近代における<非宗教としての宗教>としての愛国心成立の契機こそ、「絶対精神」というパラメーターを補助線に使うことでヘーゲルが、少なくとも、その理論面においてはキリスト教色濃厚で歴史的に特殊な欧州特有の内容とは無縁なものとして「解読=脱構築」可能な、アメリカンな国家理念と(国家理念の核心たる「自由」の弁証法的発展としての)人類史を構想できた思想的な背景でしょう。

他方、山崎孝子氏は、しかし、梅子先生の「愛国心と宗教の関係理解」に関して、「キリスト教と愛国心の関係についての考え方には、異論もあろう。全体主義的な個の喪失に傾きやすいそのころの愛国心と、神との関係において、個の自由の確立を根底においた上での、愛と奉仕を説くキリスト教とは、本来、相容れないはずである」(ibid, p.149)と述べている。蓋し、この認識こそ、左翼・リベラル派と通底する、実体概念としての国家の表象を前提とした誤謬と言うべきである。而して、その民族と国家が置かれた地政学的と時代的な位相を捨象するとき、梅子先生の眼は、<非宗教としての宗教>としての<愛国心>という、近代国家に普遍的な<物語>の紙背に眼光を届かせていたことは間違いないと思います。

山崎孝子氏と同様の誤謬を、しかもご丁寧に「往復ビンタ」で犯している論者もおられる。丸山真男氏は、「超国家主義の論理と心理」(『世界』1946年5月号所収;『現代政治の思想と行動』(未来社・1956年-1957年)に所収, pp.13-15)にこう記されていますから、

ヨーロッパ近代国家は「中性国家」たることにひとつの特色がある。中性国家は真理とか道徳に関して中立的立場をとり、そうした価値判断はもっぱら他の社会的集団(たとえば教会)や個人の良心にゆだねる。国家主権の基礎を、かかる価値内容とは無縁な「形式的な法機構」の上に置くのである。(中略)

ところが日本は明治以後の近代国家の形成過程において、国家主権の技術的、中立的性格を表明しようとしなかった。ヨーロッパにおいては思想・信仰・道徳の問題は被治者の「私事」としてその主観的内面性が保証されたが、日本の国家主義は自分自身が価値内容の実体たることにどこまでもその支配根拠を置こうとした。

日本に「内面的」世界の支配を主張する教会勢力は存在しなかった。したがって良心に媒介された個人の自由に関する抗争は日本においてはありえず、国家がその統治妥当性の「形式性」を意識することもなかった。そうして第一回帝国議会の召集を目前に控えて教育勅語が発布されたことは、日本国家が倫理的実体として価値内容の独占的決定者であることの公然たる宣言であったと言っていい。(後略) 


敷衍すれば、日本では、私的領域から公的領域に自己を隔絶囲繞するはずの国家権力が、私的領域の脆弱さゆえに、天皇制イデオロギーをその尖兵にして、信仰や家族観等々の私の領域までも覆い、その結果、戦前の日本人は自己の責任で判断する/行動するという体験を究極的な所では積むことがなかった。戦前の日本では、よって、国家に帰依するにせよ憎悪するにせよ、すべて、国家権力の存在感と動向に自己の行動の方途と意味を求める無責任で他律的な思想が蔓延した、と。そう丸山氏は述べる。

蓋し、「オタク何様?」と言いたいだけではなく、丸山氏の議論は、近代日本の天皇制イデオロギーが<非宗教としての宗教>である側面は正しく捉えているものの、一方で、実体概念としての近代国家理解の陥穽に陥り、欧米の近代諸国家もゲルナーの言う意味での、「歴史的に特殊な新たな自己認識たるナショナリズム」を戴く、日本とパラレルな存在にすぎないことを「解読=脱構築」することができていない。他方、「戦前の日本の国家社会」なるものをも実体概念として捉えて、その「固有名詞-普通名詞」としての重層的性格を看取することができないでいる。

要は、理論の抽象度を、前者では過剰に高く、後者においては過剰に低く設定している点で逆方向ではあるけれども(現存在としての人間が織なす国家の表象を看過して)、双方において、実体概念が形成する幻想の世界に遊離している。ゆえにそれは、「往復ビンタ」的な自爆でしかないと言わざるを得ないのです。


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繰り返しになりますが、畢竟、アメリカンな愛国心といえども、それは、論証不可能&共約不可能なイデオロギーである。また、ホッブスのいう意味での「可死の神」としての近代の主権国家は、その構成メンバーに対して、その<愛国心の物語>に帰依することまでは要求できないにしても、それがその国家社会の内部世界ではオフィシャルでスタンダードなものであることは遍く了解させるものではある。而して、<愛国心>は<非宗教的な宗教>とも言うべき観念表象なのです。

蓋し、「可死の神」はその領域内では最高の、他国に対しては対等独立の政治的権威であり、逆に言えば、その「社会秩序-憲法秩序」としての「可死の神」の効力根拠は(就中、ウェストファリア条約体制以降)国際法秩序である。よって、<愛国心>の効力の範囲もまた自国民に限定される。ならば、差別排外主義的な色彩は憲法が容認する<愛国心>とは相容れない。畢竟、憲法秩序と親和的な<愛国心>とは保守主義と親和的な<愛国心>に他ならない。と、そう私は考えます。



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(2011年08月1日:yahoo版にアップロード)

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