覚書★アガサ・クリスティーという愉悦(序)




アガサ・クリスティー(Dame Agatha Christie , DBE; 1890年9月15日 - 1976年1月12日)は、言うまでもなく「ミステリーの女王」。その作品評論や伝記の類は枚挙に暇がないほど。よって、本稿は、屋上屋を架す愚は避け、クリスティー作品を読むことから21世紀の日本の読者が得ている<愉悦>の正体という現象に絞って随想するものです。

而して、「オタク」の域に入ったクリスティーファンの仲間内での楽しみ方、例えば

「ミス・マープルは都合何人のメイドを雇ったか?」「何回、ポワロは「灰色の脳細胞:grey cells」という言葉を使い、ポワロ以外には誰々が合計何回この単語を使ったか?」「ミス・マープルと彼女の年来の同志(her old cats companion)になるドリー、バントリー夫人は、『火曜クラブ:The Tuesday Night Club』(1932)で最初に会ったときにはそれぞれ何歳だったのか?」


とかの、現実社会とは関係なく<クリスティーの作品世界>の内部だけで完結する、そんなタイプの戯れの愉悦は本稿では論じないことにします。

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また、例えば、

有名な1926年の「失踪事件の真相」を巡る甲論乙駁が、ある意味、その典型でもあるのでしょうが、その他、「クリスティーが創作した架空の村、セント・メアリ・ミードは英国のどこにあるのか?」「長編は年に1冊のペースが原則(?)のクリスティーが、ポワロとマープルの両看板役者主演の作品を同じ年に上梓した、1943年と1953年の間で、すなわち、『五匹の子豚:Five Little Pigs』と『動く指:The Moving Finger』から『葬儀を終えて:After the Funeral』(thereafter the title changed to "Murder at the Gallop")と『ポケットにライ麦を:A Pocket Full of Rye』の間で、ポワロとマープルがそれぞれのメイド/執事に払った給与は月給ベースでどう変動したか?」 


等々の、現実の社会と無関係ではないが、さりとて、それがどうであろうと、単に<クリスティーの作品世界>の理解が幾らか進むにすぎない、そんなタイプの探求から得られる愉悦も本稿の考察の射程には入れません。きっぱり。

というか、そういう愉悦のためには、例えば、『ミス・マープルの愛すべき生涯:The Life and Times of Miss Jane Marple』(Anne Hart, 1985; 浅羽莢子訳, 晶文社・1989), 『なぜアガサ・クリスティーは失踪したのか?:Agatha Christie and the Eleven Missing Days』(Jared Cade, 1998; 中村妙子訳,早川書房・1999)等々、その道の<研究書>も少なくないですからね。

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而して、更に、「ミステリー:推理小説」なるものに、おそらく、不可避的に付随するだろう(犯罪の手口若しくはアリバイの捏造、あるいは、犯罪の動機若しくは事件の社会的背景等々、)広い意味の犯罪を巡る謎解きの面白さも(それは個別、クリスティー作品に限られたことではないでしょう。)、本稿では除外しようと思います。敷衍します。

実際、その奇抜なトリック(?)で有名な『オリエント急行の殺人:Murder on the Orient Express』(1934)、あるいは、そのトリックが(読者に対して)フェアーではないのではないかとの物議を醸した『アクロイド殺し:The Murder of Roger Ackroyd』(1926)、更には、『雲をつかむ死:Death in the Clouds』(1935)や『二人の老嬢 :The Companion』(ミス・マープルの<デビュー>作である短編集『火曜クラブ:The Tuesday Night Club』(1932)に収録)で冴え渡っている、人間の「パターン認識としての他人観察の傾向性」を逆手に取った、心理的盲点を突くトリックの斬れ味。これらからだけでも、クリスティーが犯罪の謎解きの領域においても一流のミステリー作家であることは間違いないでしょう。


しかし、その領域における彼女の技量は、例えば、エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe, 1809-1849)の古典的な『モルグ街の殺人:The Murders in the Rue Morgue』(1841)等々、あるいは、モーリス・ルブラン(Maurice Leblanc, 1864-1941)の「ルパン」もの(発表年:1907年~1939年)やコナン・ドイル(Sir Arthur Conan Doyle, 1859-1930)の「ホームズ」もの(発表年:1887年~1917年/1927年)と質的に異なるものでしょうか。私はネガティブに感じる。而して、この領域における作者の高い技量も、クリスティー作品をこの道の他の腕っこきのミステリー作家の諸作品から<聖別>する決め手にはならないと思うのです。これが、犯罪を巡る謎解きの面白さの契機を本稿の考察から除外する理由です。

では、これらの限定を施した場合、一体、クリスティー作品の魅力は何に起因すると言えるのでしょうか。


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◆解釈の機能と条件

ミステリーの中には、例えば、『刑事コロンボ:Columbo』(1960, 1962, 1968-1978, 1989-2003)の大部分の作品のように、最初から犯人も手口も<読者>に明かされている作品も少なくありません。実際、『水戸黄門』、否、ミステリーに限らず古典的な作品の世界、すなわち、歌舞伎や文楽の演目、シェークスピアの戯曲などはすべてこの「コロンボ」タイプの作品と看做せるのかもしれません。

これらの場合、よって、<読者>の愉悦は、比喩を使えば、完成時の図柄が既知のジグソーパズルの楽しみに似ている、鴨。そう、パズルのピースを「コロンボ=読者の分身」が適宜拾い集めて図柄を完成させるプロセスに愉悦の源泉はあるの、鴨。

つまり、このタイプのミステリーの場合、<読者>の愉悦は、予定調和的に推移する作品の仮想的な時空を共有すること自体にある。蓋し、(完成したジグソーパズルそのものではなく、)ジグソーパズルを完成させるプロセス、すなわち、完成のプロセスの目撃や、そのプロセスの追体験と感情移入(reliving and empathizing with)にあるのではないでしょうか。

要は、このタイプのミステリーでは、<読者>はあたかも、主人公の刑事や探偵、検察官や弁護士、あるいは、科捜研の女に憑依して、試行錯誤を経ながらも謎を解明する疑似体験を楽しんでいるのではないか。而して、読了の際には、謎という意味でも、犯罪という意味でも、その<事件>によって乱されてしまった(仮想空間ではあるにせよ)世界に秩序を取り戻せたことに対してカタルシスさえ覚えているの、鴨。


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ミステリープロパーの愉悦を除外する場合、しかし、クリスティー作品の魅力は、この謂わば「追体験-感情移入」を触発する作品の機能に還元され尽くすわけでもない。而して、他方、この「コロンボ」タイプの作品の愉悦を基礎づけているものは、漱石や鴎外、司馬遼太郎や星新一等々、ミステリーに限定されないテクスト一般に当てはまる、所謂「解釈学的循環:Hermeneutic circle」の契機でもありましょう。そう私は考えます。

ちなみに、「解釈学的循環」とは、

()テクストの全体の意味の把握にはその部分の意味の把握が不可欠であり、他方、テクストのある部分の意味はテクスト全体の意味を前提にしてのみ理解可能である。よって、()テクストの意味は(テクスト解釈のルールが別途定められるか、あるいは、テクスト外的の情報が新たに得られない限り)唯一の「真理」なるものに到達することはない。

すなわち、()解釈とは、「部分→全体→部分→全体→・・・」という無限に続く螺旋状に上昇/下降する作品内容の理解の営為に<読者>を誘うものである。而して、()この螺旋状の循環プロセスの中で<テクスト>も<読者>も、漸次、新しい地平で新しい<テクスト>と新しい<読者>として、これまた、無限に、すなわち、恒常的かつ不断に再構築されていくというアイデアのことです。


しかし、「解釈学的循環」なるものを含む解釈の営為の意義と妥当性は、

①作品の不透明性
テクストの意味が(大昔の作品であるとか、外国の作品であるとか、はたまた、日本人にとってのギリシア悲劇の如くその両方の側面を持つ作品であるとか、あるいは、イデオロギーを異にする作者の作品や<読者>が不案内なある専門領域の知識・情報を下敷きにした作品であるとかの理由で)自明なものではない/自明なものではなくなったテクストについて、

②解釈権威の消失
そのテクストの意味を確定する能力や権限を持つと社会的に了解されている(例えば、かっての「ローマ法王」や「ソ連共産党」、「東京大学法学部」や「アメリカの連邦最高裁」、「聖霊」や「唯物史観」等々の)権威者や権威的な解釈原理が不在な、すなわち、<神が死んだ社会>における解釈においてのみ認められるもの。   


而して、テクストの文言は一字一句、著者をして<聖霊>が書かしめたという『聖書』解釈における所謂「逐語霊感説」が神通力や説得力を大幅に喪失した<神が死んだ時代>に生きる我々にとって、つまり、客観的で普遍妥当性を帯びるテクストの意味などは肯定できるはずもない、すなわち、テクストの意味の正しさはあくまでも間主観的なものでしかなくなった20世紀後半以降の<乏しき時代>を生きる我々にとって、重要なことですので繰り返しますけれども、上記の「解釈学的循環」の契機は、「コロンボ」タイプの作品の解釈に限らず、ミステリーに限らずあらゆる作品の解釈について認められる事柄。ならば、この「解釈学的循環」の契機のみによって、個別、クリスティー作品の魅力を基礎づけることはできないのです。


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◆クリスティー作品の魅力の源泉-予備的考究

では、クリスティー作品の魅力の源泉は何か? クリスティー財団の理事長でアガサ・クリスティーの娘ロザリンドの息子である1943年生まれのマシュー・プリチャード氏は、『スタイルズ荘の怪事件:The Mysterious Affair at Styles』(1920)と『牧師館の殺人:The Murder at the Vicarage』(1930)の日本語版に寄せた文章の中でこう述べておられる。

ちなみに、「ロザリンド」は、日本のアニメのキャラクターのことではなく、アガサ・クリスティー DBEが愛した母国、英国の至宝であり、彼女自身も少女時代その諸作品に魅了されたことを誇らしく書き記している、シェークスピアの『お気に召すまま:As You Like It』のヒロインの名前ですよ。為念。

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『スタイルズ荘』はアガサ・クリスティーにとってもデビュー作です。・・・この作品のどこにアガサ・クリスティーを終生にわたって人気作家の地位にとどまらせることになった魅力があるのでしょうか? 第一に、おそらく彼女自身は意識していなかったでしょうが、わたしたちが生きている社会とはまったく異なる社会を描いたこと。『スタイルズ荘』の舞台は古いイギリスの田舎屋敷で、大家族、多種多様な友人、親戚、時として意外な一面を見せる人々が登場します。ほとんどの人が定職についていないようですが、なんらかの定収入があります。人々はテニスを楽しみ、使用人がおおぜいいて、庭師は遺言状の連署人にもなり・・・それでも、最終的には、すんなり納得できるところに落ち着くので、そこに描かれた社会が過去のものという気はしません。

(『スタイルズ荘の怪事件』ハヤカワ文庫版・2003年・矢沢聖子訳, p.6)

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アガサ・クリスティーのミス・マープルものは--『牧師館の殺人』のような初期の作品はとくに--もはや存在しないイギリスの田園風景を描いています。もちろん1920年代から30年代においては当たり前の光景だったのですが。当時は、裕福でなくても普通に誰もが使用人を雇えていました。ガーデニングや編み物が生活の一部でした。どこの村にも教区の牧師や村医者がいて、世間は地元のゴシップに満ちていました。

私の幼少期である1950年代もそうでしたように、人々は地元であればどこへでも歩いていきました。私の祖母は両方とも、【ミス・マープルが住んでいる】セント・メアリ・ミードよりも小さな村に住んでいました。どちらの祖母も使用人を使っていたし、ゴシップ好きで、買い物に行くのに三マイルほど歩いていたと思います。いったいどれだけのイギリス人たちが、この官僚的で人口が爆発した時代に、『牧師館の殺人』で初登場したミス・マープルやヘイドック医師を羨んだことでしょう。

(『牧師館の殺人』ハヤカワ文庫版・2011年・羽田詩津子訳, pp.6-7)  


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ロザリンドの息子のこれらの言葉を反芻するとき、蓋し、クリスティー作品の魅力の源泉は、(少なくとも、作者とは時代も社会も言葉も異なる日本の<読者>にとっての魅力の源泉は、)その諸テクストに内在する、(甲)普遍性、(乙)異質性の、(甲)(乙)の両義性ではないのか。加之、些か結論を先取りして記せば、更に、(丙)本質性もまたその魅力の源泉として数えることができる、鴨。と、そう私には思われます。

すなわち、

(甲)普遍性:
クリスティー作品は、21世紀の現在の世界を覆う資本主義的な生態学的社会構造(自然を媒介とする人と人が取り結ぶ社会的な諸関係性の総体)、および、同じく21世紀の世界のデ・ファクトスタンダードと言うべき英米流の社会規範を、その作品世界の背景としており、著述されてから作品によっては一世紀の後にそれらを手にする異国の<読者>にも理解可能な普遍性を帯びていること。

(乙)異質性:
クリスティーの作品世界は、しかし、日本とは大きく異なる英国の社会と世間を舞台に据えていること。実際、例えば、コモンローとエクイティー(更には、教会法と商慣習法)が「裁判規範-行為規範」としてその社会を覆っている判例法の国、英国。人々が(米語とも違い、原則、語末の「r」が発声されない!)様々な地域方言と階級方言に彩られた英語で覆われている英国の社会。更には、社会主義にしても「マルクス-レーニン主義」の影響が濃厚なドイツ・フランス・イタリア・日本とは違い、一世紀を超える社会民主主義の蓄積が息づく、また、少なくない変容を受けてきたとはいえ、古き良き階級制度が厳然と息づいている国、英国。

畢竟、「人間が知らないことを知ること、意味不明だった<テクスト>を理解することに楽しさを覚える存在」であるとするならば、その作品世界に内在する異質性もまたクリスティー作品の魅力の源泉の一斑でないはずはない。   


例えば、西欧文明において、一般的な作品理解それ自体を目的とした、体系的な解釈の技術たる解釈学が成立するのは、ホメロス作品が<完成>した時代から2世紀~4世紀を経た紀元前6世紀から4世紀頃のこととされています。必要は発明の母。蓋し、ホメロスの作品が<読者>にとって(古代ギリシアのその子孫達にとっても)疎遠かつ不透明な存在になってしまったことが<技術としての解釈学>を成立させた、と。

而して、この経緯は、おそらく、伝孔子編纂の『春秋』に対して、『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』の春秋三伝が成立した経緯ともパラレルでしょうか。あるいは、原始仏教の経典に「寓意的解釈:allegorical interpretation」が施されて、東アジア特有の「浄土系教典」が編み上げられた経緯とも一脈通じる、鴨。ならば、逆に、クリスティー作品は、(甲)特別な解釈の技術や解釈を巡る秘術を身につけなくとも、21世紀の日本の読者にも一応理解可能なことが、他方、(乙)異国情緒に満ちている点がその魅力の中核と言えるの、鴨。しかし、この魅力の説明もまた、20世紀の米英やカナダの作品すべてについて言えることでしょうけれども。


<続く>


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