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「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について





例えば、『天皇家の謎』(学習研究社・2008年3月)、小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL天皇論』 (小学館・2009年6月)、そして、谷沢永一『「天皇制」という呼称を使うべきでない理由』(PHP研究所・2001年3月) 等の影響でしょうか、「「天皇制」という用語は、1932年にコミンテルンによって考案され、皇室の廃止を目指すべくコミンテルン日本支部としての日本共産党に下賜されたものだ。よって、皇室を尊び、皇室と国民との紐帯のあり様である国体を尊ぶ保守派は「天皇制」などという用語は使うべきではない」といった言説を、最近ブログ等で見かけるようになりました。蓋し、戦前の日本共産党がコミンテルンの下部組織であったこと、当時のソ連の現地子会社であった経緯が一般にも広く知られることは大変好ましいこと。正に、「悪事千里を走る」とはこういうことを言うのでしょう。


確かに、「天皇制」という用語は(「封建遺制の解体→社会主義革命」という二段階革命論を採用していたとはいえ)、日本における社会主義革命を、而して、その初手としての皇室の廃止を狙っていた当時の日本共産党(≒講座派)の革命論の要石です。けれども、結論から言えば、私は「コミンテルンが作った「天皇制」という用語は使うべきではない」という主張は、「敵性言語を使うのは非国民だ」というのとあまり変わらない、あるいは、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という類の憲法無効論なみの馬鹿げた主張ではないかと考えています。

私が尊敬してやまない小平先生の顰に倣えば、「現下のこの社会とそれがよって来た経緯を認識する上でその用語が役に立つのであれば、その用語は良い用語である」。而して、この観点からは「天皇制」という分析道具はそれなりに良い<猫>だ、と。そう私は考えるのです。以下、新カント派と分析哲学の社会科学方法論の切り口、および、英米流の言葉の正確な意味での保守主義の立場から敷衍します。尚、本稿では<保守主義>の意味内容自体について敷衍する紙幅の余裕はない。よって、保守主義を巡る私の基本的な理解に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/59162263.html

・保守主義とは何か(1)~(6)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/56937831.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余(1)~(8)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/57528728.html



◆「天皇制」の起源
日本共産党は、1922年の設立以来、対ドイツ統一戦線を強化すべくコミンテルンが円満解体された1943年以降も(確実に1955年の「六全共」までは)、旧ソ連の強い影響下にありました。ならば、大東亜戦争後10年間、特にそれに代わる「日本における革命戦略」が、少なくともオフィシャルには旧ソ連で検討された形跡がない以上、32テーゼの地平は、これまた少なくとも1955年段階までは日本共産党の基本的な認識だった。

32テーゼ「日本の情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ」(1932年)は「天皇制」についてこう述べています。32テーゼと同様、コミンテルンで採択された32テーゼの前身所謂「27テーゼ:日本問題に関する決議」(1927年)と併せて引用しておきます。

◎27テーゼ
天皇はただに厖大な土地を私有しているばかりではない。天皇はまた幾多の株式会社・企業連合の実に多額の株を所有している。最後にまた天皇は、資本金一億円のかれ自身の銀行を持っている。

◎32テーゼ
1868年以後に日本に成立した絶対君主制は、それの政策には幾多の変化があったにもかかわらず、絶対的権力を掌中にたもち、勤労階級に対する抑圧と専横支配とのための、その官僚機構を不断に完成してきた。日本の天皇制は一方主としては地主なる寄生的、封建的階級に依拠し、他方にはまた急速に富みつつある貪欲なブルジョアジーに依拠して、これらの階級の上部と極めて緊密な永続的ブロックを結び、かなりの柔軟性をもって両階級のえせ利益を代表しながら、同時にまたその独自の、相対的に大いなる役割と、わずかに似而非立憲的形態で軽く覆われているに過ぎぬ、その絶対的性質を保持している。

自分らの権力と収入を貪欲に守護している天皇主義的官僚は、国内に最も反動的な警察支配を維持し、なお残存するありとあらゆる野蛮なるものを、国の経済および政治生活において維持せんがために、その全力をかたむけている。天皇制は国内の政治的反動と封建性の一切の残存物との主柱である。天皇主義的国家機構は搾取階級の現存の独裁の警固な背骨をなしている。これを粉砕することこそ、日本における革命的主要任務の第一のものと見なされねばならぬ。    


蓋し、27テーゼは、単に、(例えば、2010年現在の東南アジアやインドのスルタンやマハラジャの如く)アジア的生産様式下の「前近代的王権」の一つとして日本の「天皇」を捉えていたにすぎないのに対して、5年後の32テーゼでは、封建的支配関係を基盤としながらも資本主義的な支配力をも吸収しつつ、更には、全人民に対する絶大な精神的影響力をも帯びる「搾取階級の現存の独裁の警固な背骨」と捉えられていること。すなわち、人類史的に見てもユニークな権力構造として「天皇制」が捉えられていることは注意すべきことでしょう。

而して、「天皇制」という用語が、教条主義的な唯物史観を超える日本社会認識に導いたことを鑑みるならば、(実は、戦後も1970年前後までは日本だけでなく西欧でも、27テーゼ的な素朴な唯物史観のまどろみの中にいた論者も稀ではなかったことを想起すれば、1932年に考案された)「天皇制」という分析道具の、少なくとも、理論史上の価値を全否定することはできない。と、そう私は考えます。

しかし、このような私の「天皇制」理解に対しては次のような反論が提出されるかもしれません。すなわち、

・天皇は「制度」などではなく「国体」である
・天皇を「制度」とする認識は「制度は廃止可能」という底意に伴われている


敷衍すれば、「天皇のあり様、および、天皇と国民の紐帯のあり様そのものが国体であり、また、日本そのものである。ならば、「天皇制」という用語によって天皇を(人為的に操作可能で、当然、廃止も可能な)制度としてしまう思考には、日本の国家を解体する目的が横たわっている」、と。次項以降、この点を検討します。


◆制度は認識論的枠組みの一つにすぎない
議論が「空中戦=真理告白/信仰告白の論争」に堕することを避けるべく、ここで「制度」の意味を整理しておきます。『広辞苑』に曰く「①制定された法規。国のおきて。②社会的に定められている、しくみやきまり」、と。しかし、これでは些か漠然としている。よって、「天皇は制度か否か」を検討する作業に引き付けて「制度」の意味を取りあえずこう定義しておくことにします。すなわち、


他の領域から区別されたある特定の機能を遂行し目的を達成するために、
編成・形成された一塊の(慣習を含む)諸法規の有機的連関   


さて、上のような「制度」の定義からは、天皇を巡る社会的諸関係を制度に見立てようとすればそれは制度以外の何ものでもない。畢竟、ある対象が制度であるか否かは対象自体の性質ではなく認識の枠組みが決定するのです。このことは、ある同じ社会現象が、法学的観点から見れば法現象に見立てられ、経済学的観点からは経済現象として再構成される経緯とパラレルな事態でしょう。そして、「認識が存在を決定する」というこの経緯は32テーゼや「マルクス-レーニン」主義の地平ではなく、新カント派の認識論、および、分析哲学的の科学方法論からそう言えることなのです。

蓋し、制度として天皇を巡る事象を観察する場合にはそれは<制度>でしかない。而して、注意すべきは、この立場は、天皇を巡る社会関係を制度として見ないという立場を毫も否定するものではないということ。すなわち、この立場は、天皇を制度として見る見方を唯一絶対のものと主張するものではなく、更には、歴史的に特殊なコミンテルン流の「天皇制」という用語の意味を「天皇を巡る制度」の唯一の内容とするものでは断じてないということです。この経緯をラフに整理すれば次のようになるでしょうか。

(A)天皇は制度としてのみ観察可能
()「天皇制」の意味は32テーゼの定式のみ(講座派)
()「天皇制」の意味は32テーゼ以外の別の何か(労農派左派)
(B)天皇は制度としても観察可能
()「天皇制」の意味は多様(労農派右派)
()「天皇制」の意味は多様、かつ、制度以外の観点からも天皇は把握可能
(C)天皇は国体としてのみ感得可能
()天皇を制度として捉えることは不適当
    

私見が(B)()であることは当然ですが、他方、(C)()に分類されるであろう、「天皇制」という用語は使うべきではない」という主張は、社会科学的認識を放棄するに等しいものではないかと思います。逆に言えば、それは(A)や(B)()といった「天皇制」の廃止を狙う勢力に対する理論武装を自ら放棄するものなの、鴨。

ことほど左様に、天皇を制度としてみるかどうかは、認識論的な立場設定の問題であり、「制度→廃止可能」という実践的な主張や目論見とは直接の関係性はない。更に言えば、土台、「制度であれば廃止可能」という認識自体が現在の文化人類学的知見からはサポートされるものではない。例えば、言語も家族関係も、文化人類学で言う典型的な<制度>ですが、それらの自生性と容易に変化しない性質は周知の事実でしょうから。


◆コミンテルンは「天皇制」という用語を作る事態に追い込まれた
マルクスーレーニン主義の普遍性を世界に向けて演出するためには、(ローカルルールとしての)「サブカテゴリー」は少なければ少ないほどよい。よって、27テーゼを見るまでもなく、コミンテルンも、当初、日本だけを対象とした「天皇制」という用語が必要とは考えていませんでした。

けれども、この社会における「権力と権威の分離」「権力とも資産ともほぼ無縁な、家族的共同体を拡大させた如き天皇の社会的影響力の強大さ」等々に突き当たるに至り、彼等は「天皇制」というサブカテゴリーを捻出せざるをえなかった。 ならば、畢竟、「天皇制」という用語は、理論面ではコミンテルンの<敗北宣言>に近いものとも言えるのです。

何が言いたいのか。それは、「天皇制」という用語は、それは、叩き台であるにしても当時の最先端の社会科学的な知見がこの日本社会の分析に注がれた結果ということ。而して、それは、「物象化」「物神性」「疎外」「社会的労働」「上部構造-下部構造」等々の、分析道具概念と同様、現在では、その「実家=マルクス主義」を超えて、人類の知的共有財産とさえ言えるのだと思います。

整理します。畢竟、包丁が人を殺める凶器にもなれば、料理の利器にもなるように、「天皇制」という分析道具の価値/無価値(有益/有害・無害)は、その用法と目的に収斂する。而して、逆説的ながら、それが<科学>や<世界の常識>なるものを詐称しつつ、天皇と国体の攻撃を狙う「左翼-リベラル派」に対する反撃に有効な知見を提供する可能性がある以上、「天皇制」という用語は、<良い猫>である。と、そう私は考えています。



<補論に続く>
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