定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-




この海馬之玄関ブログで時々書いてきたことですが、「定義:言葉の意味」ということについてまとめておきます。言葉について語る言語、すなわち、メタ言語領域の「定義の定義」論です。

畢竟、どのような言葉にも唯一絶対の意味などはありません。つまり、「個々の言葉には各々唯一の「意味=指示対象」がある」という主張がプラトン以来、西洋哲学の伝統的な考え方なのですが、それは成り立たないということ。この経緯を「プラトンの髭をオッカムの剃刀が剃り落した」とも言うのですけれども。


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而して、意味とは言葉が指し示す事柄のこと。

ソシュールは、言葉が指し示す事柄のことを「指示対象」や「記号内容:所記」(sinifie)と呼び、指示対象を指し示す言葉を「記号表現:能記」(signifiant)と言っています。而して、プラトン以来の「個々の言葉には各々唯一の指示対象がある」という考え方を「概念実在論:実念論」(realism)、それに対して実在するのは個々の物事や事物だけであり、そんな物事や事物の名前、すなわち、言葉とは単なる社会的な約束事や慣習にすぎない。つまり、「個々の言葉には各々唯一絶対の指示対象はない」という考え方を「唯名論」(nominalism)と呼びます。

プラトンの髭を剃り落したオッカム(1285年?-1349年)とは、中世後期に実在したこの唯名論の論客の名前。つまり、中世以来、概念実在論と唯名論の間で戦わされた論争、「中世普遍論争」は、20世紀半ば、唯名論の後身たる分析哲学によって最終的に唯名論の勝利、概念実在論の後身としてのヘーゲル哲学・マルクス主義、就中、「天賦人権論」を掲げる自然法論の敗北で終りました。   


よって、その仲間内でのみ通用する、文化帝国主義的な「国家に論理的にも権利的にも先立つ人権」なる実体概念、若しくは、「天壌無窮不変かつ普遍なる国体」なる実体概念で自説を紡ぐ者は、現代哲学の地平からは、文字通り「自縄自縛」の滑稽を炸裂させている者でしかないのです。

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と、哲学史の話はここまで。


どのような言葉にも唯一絶対の意味などはない。けれども、実際には、多くの言葉はかなりの程度決まった特定の意味を持つものとして使われている。だからこそ、大体決まっているその意味と言葉との隙間で戯れる落語は面白く、その間隙を穿つ<詩>は芸術でありうるのでしょう。

言葉には唯一絶対の意味はない。この経緯を「言語と意味の恣意性」と言いますが、而して、哲学的には動かないこの「言語と意味の恣意性」と、言葉にはおおよそ決まった意味があるという事実をどう両立させるのか。これが、定義の定義たる「定義論」の難所。マルクスの顰に倣えば、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」『資本論』第1巻2篇4章2節末尾, 岩波文庫(一)p.289)と言うべき勘所。

その結論は? 結論は、コロンブスの玉子的。

言語とその意味の恣意性は、しかし、個々の言葉とその意味の関係が「無政府状態」あるいは「万人の万人に対する戦い状態」であることを意味しない、と。要は、中世の唯名論が既に指摘していたように、個々の言葉とその意味の間には規約・慣習により<自然法則>ではないけれど、法や道徳の如き<社会規範>が成立している。

よって、ある言葉は固有と言ってよいかなり限定された指示対象を持ちうる。逆に言えば、言語と意味を巡るルールは<自然法則>ではなく<社会規範>の一種であるから、そのルールの内容(個々の言語とその意味の関係)は時間とともに変化しうる。   


こう考えれば、「キリギリス」と「コオロギ」の語義が平安時代は現在と反対であったように、「やばい」の意味が「危ない→素晴らしい」に変化して来ているのも、あるいは、今後、そこに「女系」を組み込んだ<皇統>が「皇統」と呼ばれることになろうとも、それらは特に目くじらを立てるほどのことでもないの、鴨。閑話休題


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個々の言葉とその意味、すなわち、言語とその指示対象との関係をこのように理解するとき、「語の定義:意味を巡る言語使用のルール」や言語行為のマナーについては次のように言えると私は考えています。すなわち、

()どの言葉をどのような意味に使おうがそれは論者の勝手である。しかし、()自己の言説を他者に理解してもらいたいのであれば、(-a)一般的に使用されているその言語使用のルールを参照するか(その言葉が専門用語である場合には、専門家のコミュニティーの内部で確立している言語使用のルールを参照するか)、そうしないのであれば、(-b)個々の言葉の定義を都度明示すべきである、と。 


これら()()が満更間違いではないとするならば、この前提からは「定義」には大きく3個の種差があることが了解できるでしょう。分析哲学的な定義論が区別する、規約定義・辞書的定義、そして、言語の経験分析の三者です。この三者は、

(1)規約定義:その語彙自体を話者がどのような意味内容を運ぶための言明として使用したのか、(2)辞書的定義:その命題で使われる語彙が一般的にはどのような意味として使用されてきたのか、(3)それらの語彙が通常の人間の経験分析からはどういう内包と外延を持つものかということ。

畢竟、言葉の定義に際しては、機能的・慣習的・経験的な観点から、総合的と重層的、かつ、間主観的と漸進的にのみ、あらゆる語の意味は確定されるしかないということです。


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而して、「定義」あるいは「言葉の意味」をこう捉えるとき、それは、伝統を再構築する人々の意識と規範に憑依する(ポパーの言う意味での「世界Ⅲ」としての)somethingに他ならない。このことも了解できるのではないでしょうか。

すなわち、カール・ポパーは『客観的知識』第3章・第4章で、「考えられる対象」と「考える行為」と「考えられた内容」とは、相互に密接な関係はあるだろうが、それぞれ別の独自法則性を持つ領域であるとして、それぞれを世界Ⅰ・世界Ⅱ・世界Ⅲと名づけ区別しています。蓋し、学問体系・常識・慣習・伝統等々は、すべて、公共的な言説空間に間主観的に存在するものであり、もちろん、それらはすべて人間の主観が産み出した産物には違いないけれど、他方、それが産み出された後、間主観性を帯びて以降は、最早、「非主権的-客観的」な知識と言うべきものである、と。

敷衍すれば、単なる「物の世界:世界Ⅰ」や「主観の世界:世界Ⅱ」とは別次元に「作品の世界:世界Ⅲ」は確かに存在している。例えば、誰しも、義経が頼朝に危険視されて討伐された<事実>を知っている。あるいは、かぐや姫が求婚者を体よくあしらって最後には月の世界に帰る<物語>を知っている。更に、例えば、外国人地方選挙権や女系天皇制の是非を巡る議論は現行の日本国憲法の条規や最高裁の過去の判決を前提にして戦われている。蓋し、歴史的事実も御伽噺も憲法の規範意味も「公共的な言説空間に諸々の作品によって編み上げられた世界Ⅲ」の要素であり間主観性を帯びているのです。

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而して、例えば、女系天皇制を導入した場合にその断絶が想定されるらしい「皇統」なる語にも絶対的の意味内容は存在しない。ヘーゲルやマルクスがその実在を信じて教条のまどろみに浸っていた、すなわち、概念実在論が想定していたような「言葉の本当の意味」なるものはこの世に存在しないのです。ならば、相互討論が生産的で有意味なものになるか否かは、「言葉の正しい意味」や「語の本当の意味」なるものではなく、論者の「言葉の正しい使用方法やマナー」に依存することになる。

要は、<言葉の正しい意味>とは、<正解>がこの世のどこかに(あるいは、<秘術>や<預言者>の存在を前提にする場合には、あの世には)存在する類のアプリオリなものではなく、あくまでも、<技術としての解釈>の営みによって社会的に措定されるしかないものなのです。尚、この論点に関しては下記拙稿を併せて参照いただければ嬉しいです。

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60002055.html

・覚書★アガサ・クリスティーという愉悦(起)~(結):特に(結)の記述
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60877594.html

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蓋し、「保守主義」や「民主主義」、「基本的人権」や「国民主権」という言葉もまた本質的に多様ならざるを得ない。土台、「主権国家」「国民国家」「民族国家」、否、「民族」という概念自体が極めて歴史的なものなのですから。

実際、一般に「主権国家」と「主権国家間の関係としての国際法秩序」を確立したとされるウェストファリアー条約体制(1648年)の後も1世紀余り近世と近代の渾然融合は続いたのであって18世紀半ばまでは「主権国家」も、そして、フランス革命以前には「民族」さえも、銀河系はともかくこの地球上には存在してはいませんでした。加之、名誉革命の結果としての「議会主権の確立」、および、階級対立の先鋭化を受けた19世紀後半以降の制定法の社会化を看過するとしても、英国や米国のコモンローの内容は歴史と共に変遷を繰り返してきたのであって、「法の支配」にいう「法」の意味もまた極めて歴史的で可変性・相対性を帯びたものなのですから。

更に言えば、我が国においては、幕末・明治初葉までは「国家」とは統治の主体たる大名家中と統治の客体たる領地・領民を指す、ローカルガバメントに関する言葉でした。また、現在、我々が「日本的なもの」「日本古来のもの」と感じているものの少なからずは、「皇国史観」然り、「家父長制的な家族関係」然り、明治維新を契機に人為的に作り上げられた表象にすぎません。而して、「終身雇用制」や「年功序列制」に至っては(「農地改革」とともに)国家社会主義を目指した所謂「1940年体制」の産物であり、戦後改革の中でこれらが日本の伝統的なものと錯覚されたのは心理学で言う所の「記憶の自己改竄」に他なりません。

ならば、もし、現在の保守主義を、左右のあらゆる教条を忌避してされる恒常的な伝統の再構築の志向性と規定することが満更我田引水的理解ではないとするならば、保守主義とは、実体概念と通底する「言葉の正しい意味」なるものや「語の本当の意味」なるものに依拠するタイプのあらゆる言動を忌避する態度とも言える。と、そう私は考えます。

尚、保守主義の傾向性を巡る私のこの結論的の主張については下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。

・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・覚書★女系天皇制は<保守主義>と矛盾するものではない
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60896992.html


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大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義の批判を果敢に推進するための
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