覚書★保守主義と資本主義の結節点としての<郷里>(上)




大東亜戦争の開戦(1945年12月8日)から66年、忠臣蔵の討ち入り(元禄15年12月14日:1703年1月30日)から大凡309年、そして、明治維新の王政復古の大号令(慶応3年12月9日:1868年1月3日)からは143年。なにより、<2011年3月11日午後2時46分>から272日目の今日。日本の内外で経済・財政政策の、よって、政治の制度疲労が露わになってきていると思います。

停滞する震災復興、圧倒的税収不足の中で税と社会保障に対する不公平感と不信が渦巻く日本。金融・財政のそのスタビライザーが<張り子の猫>であったことが露呈して崩壊寸前のEU。輸出の失速に伴い不動産バブルの崩壊が秒読みに入った感のある支那、および、(支那経済の失速にリンクして)風前の灯火状態が常態化した感のある韓国等々、マルクスの願望通り、世界は「世界同時革命前夜」の様相を呈しているの、鴨。

他方、しかし、早くも雲散霧消した感のある「the 99%」なるものによる徒花的のデモを尻目に、(民主主義なるものや基本的人権なるものの普遍性を勝手に信じ込み、現実の世界の具体的な主権国家の能力不足や「国際社会」なるものの無力、あるいは、正義に反する資本主義の不完全さに対して不毛なる責任転嫁を重ねるだけの他の思潮に比して)世界の社会思想的の運動圏内でも、左右を通して独り気を吐く趣のあるアメリカの草の根の保守主義(Tea Party Movement)の現状。

これらの状況を反芻するに、蓋し、人類史は、(私の考える、「保守主義」と「憲法」の内容の詳細については下記拙稿を併せてご一読いただきたいのですけれども)いよいよ<保守主義>と、就中、<保守主義の憲法論>の時代に突入しつつあるの、鴨。と、そう私は思わないでもありません(★)。而して、その<保守主義>とは、共同体としての<国家>と<郷里>に本質的な価値を認める立場であろうということも。

要は、現下の日本の政治に求められていることは、「小泉改革の再始動」と「地方再生」の同時実現であり、逆に言えば、それら一見トレードオフの関係にあるタスクを(スキー種目のノルディック複合の練達の選手よろしく、)より高いパフォーマンスで実現できる<政治>の具現が現下の日本においては死活的に重要な課題ではないでしょうか。

換言すれば、小泉政権当時の日本に専ら与えられていた課題が「構造改革の着手」であったとすれば、その一応の成功を受けた(要は、小泉政権が構造改革に着手したからこそ、その新たな課題設定も可能になったのでしょうが、)現下の日本の課題は「構造改革の再始動と加速」および「地方再生」の同時実現である。そして、後者は偶さかの政治課題ではなく<保守主義>が不可避的に取り組まなければならない「必須科目」である。と、そう私は考えるのです。


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★註:保守主義の意味

ここで私が言う<保守主義>とは、(例えば、社会思想の学説史博物館の陳列物にすぎない「バーク保守主義」なるものなどではない、)現在の現役の社会思想としての「保守主義」であり、それは次の4項目をその内容の核心として含む、而して、英米流の分析哲学と功利主義の哲学、並びに、新カント派の認識論、および、現象学と現代解釈学と親和性の高い「社会と社会内存在としての人間、それら双方のあるべきあり方」に関する世界観の体系のことです。

①左右の教条主義、就中、設計主義に対する不信と嫌悪
②慣習と伝統、歴史と文化の尊重と、それらの構築主義的で恒常的な再構築の希求
③国家に頼ることを潔しとせず、他方、国家の私的領域への容喙を忌避する、
 自己責任の原則の称揚と同胞意識の勧奨を支持する態度 
④差別排外主義の忌避
(①~③に共感・承認される外国籍市民の尊敬、および、その歴史と文化、伝統・慣習の尊重)
 

尚、換言すれば②の内容とは、(文化帝国主義の手垢のついた、かつ、根拠薄弱な「基本的人権」「国民主権」「個人としての人間の生命」なるものの価値を絶対視することなく、)現存在たる<自己>のアイデンティティーを根底で支える<歴史>としての<言語>によって編み上げられた<伝統>としての<政治的神話>のイデオロギーを肯定する、有限なる人間存在の自覚に貫かれた大人の中庸を得た態度。畢竟、個別日本においては、「天壌無窮、皇孫統べる豊葦原之瑞穂国」というこの社会を統合している<政治的神話>を好ましいものとして翼賛する心性と態度。而して、時代の変遷の中で(例えば、女系天皇制を導入してでも)伝統と慣習の枠組みを維持し、かつ、恒常的に伝統と慣習、文化と歴史を再構築しようという態度であると言えましょう。

更に敷衍しておけば、②と③の矛盾と緊張を巡っては、「国民の法的確信」を基盤とする<憲法体系>の調整に委ねようとする志向性こそ<保守主義>の態度であり、よって、白黒はっきり言えば、「伝統」や「慣習」、「文化」や「歴史」の中には、<憲法体系>によって、つまり、<保守主義>によって守護されるべきものとその保障の対象から外されるものの種差が生じるということ。

而して、けれども、その両グループに属する各々の価値と規範の間の境界線はアプリオリに定まるものではなく、(例えば、現下の女系天皇制を巡る問題状況の如く)時代とともに変遷する「国民の法意識=国民の法的確信」に従い、「遂行論的-」あるいは「構築主義的-」に、厳密に言えば、現象学の言う「間主観性」の地平で自ずと定まるものと言えると思います。


・保守主義の再定義(上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444711.html

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60902921.html

・「左翼」という言葉の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60904872.html

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★註:憲法の意味

機能論的に観察された場合、ある国内法体系の内部においては、あらゆる下位の法規にその法的効力を付与し、他方、下位法規の内容に指針を与え制約するという、最高の授権規範であり、かつ、最高の制限規範である「憲法」は、それが存在する規範形式に着目する場合、

(イ)形式的意味の憲法:『日本国憲法』とか 『The Constitution of the United States of America』 のように「憲法:Constitution」という文字が法律の標題に含まれている憲法典。および、(ロ)実質的意味の憲法:「憲法」という文字が名称に含まれているかどうかは問わず、国家権力の所在ならびに正統性と正当性の根拠、権力行使のルール、すなわち、国家機関の責務と権限の範囲、ならびに、国民の権利と義務(あるいは臣民の分限)を定めるルールの両者によって構成されています。

すなわち、「憲法」とは、()法典としての「憲法典」に限定されるものではなく、()憲法の概念、()憲法の事物の本性、そして、()憲法慣習によって構成されている。而して、()~()ともに「歴史的-論理的」な認識の編み物であり、その具体的内容は最終的には、今生きてある現存在としての国民の法意識(「何が法であるか」に関する国民の法的確信)が動態的に確定するもの。

而して、それらは単にある諸個人がその願望を吐露したものではなく、社会学的観察と現象学的理解により記述可能な経験的で間主観的な規範体系なのです。もし、そうでなければ、ある個人の願望にすぎないものが他者に対して法的効力を帯びることなどあるはずもないでしょうから。   


・憲法とは何か? 古事記と藤原京と憲法 (上)~(下)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444652.html

・憲法における「法の支配」の意味と意義
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60444639.html

・「天皇制」という用語は使うべきではないという主張の無根拠性について(正)(補)
 http://blogs.yahoo.co.jp/kabu2kaiba/60899909.html



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◆小泉構造改革の「槍」を引き継ぐ秋

日本は今こそ小泉構造改革の槍を引き継ぎ、その旗を再度掲げるときなの、鴨。グローバル化の昂進に起因する欧州と日本における政治の機能不全とアメリカにおける保守主義の隆盛を鑑みるとき、私はそう思わないでもありません。

公共投資の乗数効果の逓減と「限界費用逓減の法則の消滅」が現実味を増す中で、福祉国家モデルの破綻、そして、福祉国家モデルの基盤の一つ、少なくとも、福祉国家思想のシャム双生児とも言うべきケインズ政策の神通力の融解が誰の目にも明らかになって久しい現在、その同じ<現実>を見据えて、小泉純一郎総理が、「旧田中派-竹下派」支配下の政治(「55年体制下の政治」とも言う。)の無能に起因する「失われた90年代」から日本を脱却させた構造改革の路線は、EUの崩壊と支那経済の失速が秒読み段階に入った現在、益々、その意義を高めているのではないかということです。

他方、日本ではいまだに「格差」あるいは「格差社会」なるものを論じる向きもある。けれども、所謂「格差社会論」は全くの謬論でしかありませんでした。すなわち、

親世代と子世代の職業における階層の固定化なるものを<暴露>したとされる佐藤俊樹『不平等社会日本』(中公新書・2000年)の主張は(佐藤氏が行なった各時代の40歳時点の職業の調査によっても)、高校進学率が30%の時代と90%を遥かに超えるようになった時代との比較、すなわち、高度経済成長が終焉を迎えるまでの工業化への過渡期(ホワイトカラー層が社会の少数派であった時代)と工業化が完成しポスト=工業化に入った時代(ホワイトカラー層が労働力人口の過半を遥かに超えている時代)の比較は無意味であり、よって、そう根拠のある主張ではなかったのです。

まして、(大部分の中小企業では実際にはそれは戦前戦後を通して根づいていなかったにせよ)雇用者-被雇用者双方の意識においても「終身雇用制」が崩壊したここ20年間における40歳時点の職業・所得を過去のそれらと比べることは全く意味がないでしょう。

また、一時世の耳目を集めた山田昌弘『希望格差社会』の主張も、結局、景気変動と産業構造の調整の部面での労働力市場を巡る現象を「格差拡大」と解釈しただけの主観的な主張にすぎなかったことは現在では自明です。

そして、なにより、富の社会的分布の度合を表す所謂「ジニ係数」の変化を根拠に日本社会における格差拡大を主張した橘木俊詔『日本の経済格差』(岩波新書・1998年)の主張は、大竹文雄『日本の不平等』(日本経済新聞社・2005年)等によって(橘木氏が根拠としたジニ係数の変化は、日本社会の少子高齢化に伴う世帯所得の見せ掛けの分布の変化であり)実証的に否定されたこと、少なくとも絶対的のものではないことも現在ではほとんど争いのない認識なのです。


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<続く>


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